――俺は野球を辞めた。それだけだ。
 そうはっきりと口にした恩田雄大の後ろ姿はどこか一縷の寂しさと強く重たい決意を持っているように思えた。それが何なのかは定かではないが、野球部に彼を引き込むのは並大抵のことではないと容易に想像が付く。
 そして状況は相変わらず進展はない。ビラ配りとポスターでは、効果が薄すぎるのだろうか。部活に入ってない新入生も日に日に少なくなっている。このままではどうしようもない。
「おい、修。聞いているのか」
 思案にふけっていた吉沢の頬に軽い衝撃が神経を通して伝わる。不満げな表情を浮かべた進が、吉沢の頬を軽くはたいたのだ。
「あ、ああ。すまない。ちょっと考え事をしてた」
 吉沢は慌てて居住まいを正し、進と机を通して向き合う。進の方も1人声を掛けたらしいが、結局入部は見送られたらしい。
「これからどうする。正直手詰まり感がやばいんだよな」
 進が少し苛立ったようにうーんと宙を睨み付ける。1人でも入ってくれれば気分的には楽なのだろうが、現状では遠い話か。
「かといって、部員集めはしばらくは続けないといけないぞ」
 吉沢はふぅっと一つ大きく息を吐いて、進に視線を投げかける。だが、進は机から目を離し、扉の方を凝視するだけだ。
「あれ、裕也じゃないか」
 吉沢も進の視線の先へと視線を移すことにする。そこには2人の人影があった。1人が小柄で、もう1人は大柄、そのせいで余計身長差が激しく感じてしまう。
「どうやらこっちに用があるらしい」
 やってくる2人を迎えるべく、吉沢はゆっくりと腰を上げた。



03 新入部員来る



 2週間も経つと、それなりに学舎の中も落ち着きを取り戻し、人間関係などもある程度は固まってくる。クラス、部活、授業選択など色々な要因があるが、やはり大本は気が合うか合わないかだろう。
 水瀬祐也(みずせゆうや)ははぁっと軽くため息をついて、卓上に散らばる紙と睨めっこを繰り返していた。
 懸案事項は部活動だった。元々そこまで気の強くない……いや、はっきりと言えば気の弱い水瀬だったが、何とか友人と呼べる人間は数人作ることが出来た。部活には入りたいが、運動部はあまり入りたくなかった。一方で、この学校は文化部もあまり活動が活発だとも言えない。それが水瀬を悩ませていた。
「どうした、ため息なんかついて」
 急に卓上が暗くなったと思ったら、頭上から声が響いてくる。水瀬はプリントから視線を外して、声の主の方へ体を向ける。
「大野君……」
 水瀬は180cmに近い長身の少年を一瞥して、愛想良く笑みを浮かべる。
「部活か」
 水瀬の机に散らばるチラシを一枚拾い上げて、大野はうーんと小さな唸り声を上げる。だが、すぐに何か思いついたのか水瀬の方へ視線を移して、開口一番提案を行う。
「一緒に部活探さないか?」
 大野の言葉に水瀬は少し驚いた。てっきり大野はどこかの部活に入っているものだと思っていたからだ。
「中学まで剣道をやっていたんだが、この学校には剣道部がないみたいだから、別のことに挑戦してみようかと思ったんだ」
 水瀬の疑問に大野は訊ねるまでもなく応えてくれた。ぶっきらぼうな口調だが、服越しにもわかる鍛えられた体から相当剣道には集中して打ち込んでいたのはわかる。
「それじゃあ、色々見に行こうか」
 プリントを丁寧に整理してファイルに入れると、水瀬はゆっくりと席を立ち上がった。大野はそれに黙って頷くと、手元にあるリストを見つめる。
「そういえば、今年から新しく野球部が出来たみたいだな」
 大野はふと思い出したように、ぽつりと呟いた。だが、水瀬はチラシを貰っておらず、その存在を知らなかった。
「へぇ、今年から出来たんだ。どんな感じなんだろう」
 一般的な野球部と言えば、上下関係が厳しく、理不尽さの塊といった印象で、あまり入りたいと思わないが、その時水瀬は何故か無性にその野球部が気になった。
 脳裏によぎるのは、泥だらけになりながら、心底楽しそうな表情を浮かべる少年の姿。もう5年も前の話だ。
「まず行ってみるか?」
「そうだね」
 水瀬は軽く笑みを浮かべながら、大野の言葉に頷き返した。



 水瀬祐也は元々引っ込み思案な面の強い大人しい子供だった。今もその性格はあまり変わっていないが、小学生の頃に比べれば随分マシになったと思う。
 小学生の中学年の頃だろうか、同じ年頃の従兄弟が祖母の家にやってくることがあった。それまで面識はあったものの元来の人見知りとあまり接する機会が多くなかったことで、水瀬はほとんど従兄弟と遊んだことがなかった。
 けれど、その時は偶然、祖母の家に水瀬と従兄弟が同時に泊まることになった。
 従兄弟は3人兄弟だった。2つ年上のやけに大人びたお兄さんと、一個下の可愛らしい女の子。そして同い年で明るい少年。
 同い年と言うこともあって、少年は水瀬に盛んに一緒に遊ぼうと誘ったが、人見知りが故にそれを水瀬は断ってしまう。
 だが、少年は諦めず絶対楽しいからと半ば強引に誘ってくる。その押しに負けて、公園に連れられると、そこにでは白いボールが一つ放物線を描いて飛び交っていた。
「これは?」
「キャッチボールだよ。やったことないのか?」
 見ると彼の兄と妹は器用に互いのグローブにボールをテンポ良く投げ合っている。
「それは知ってるけど……」
「やったことはないのか」
 少年の言葉に水瀬は恥ずかしくなって、俯き加減にこくりと小さく。同じ学校の奴にならバカにされただろうが、少年はそっかと納得したように頷くと、小さめのグローブを手渡してくる。
「とりあえずやってみようぜ」
 手渡されたグローブを左手にはめて、水瀬は距離を離していく少年の後ろ姿をぼんやりと眺める。
 10mほど離れたところで、少年が振り返り、こちらに向けて大きく振りかぶる。しゅっと空気を切るような音がして、白いボールがこちら目がけて飛んでくる。慌ててグローブを出すが、強い衝撃と共にボールはグローブの淵に当たって大きく弾かれてしまう。
「胸の当たりにボールが来る。ボールをよく見て、グローブの隙間にボールを収めるようにするんだ」
 アドバイスをくれたのは先程までキャッチボールをしていた少年の兄だった。落ち着いた声と、もう一つ頑張ってと無邪気な声がして、水瀬はじっとボールを待つ。
 程なくしてボールが白線を描きながらやってくる。それをすっとグローブを伸ばして、つかみ取る。ボールの勢いに痛みが少し走るが、気にすることなく、水瀬ははじめてその顔に笑みを浮かべた。
「ナイスキャッチ」
 その言葉が嬉しく、そして少年が駆け寄ってきて、自分のことのように喜んでくれたのが更に嬉しかった。
 あの日以来、水瀬は少年と、そしてその兄弟と仲良くなった。最近はあまり会えていないが、それでも会うときは凄く楽しいのだ。
「あれ、裕也じゃないか」
 不意に久しぶりに聞く声に耳を疑う。声の主は確かに自分の名前を呼んだ。
「どうやら野球部の面子らしいな」
 大野が水瀬の隣で落ち着いた声で呟く。水瀬はそれに頷きながらも、声の主から目を離すことは出来なかった。
「久しぶりだな、裕也」
 水瀬祐也の従兄弟である西崎進はあの時と変わらない笑みを浮かべて、水瀬を手招きしていた。



「進の従兄弟か、なるほどな」
 吉沢は進の話を聞いて、納得したように頷いた。話を聞くと進の母親の弟が水瀬の父親らしい。
「で、裕也はどうしてここに?」
 お互いの近況を一通り話し合ってから、進が訊ねる。大野は黙ったまま、水瀬の後で腕を組んだままだ。それはまるでぱっと見護衛の偉丈夫だ。
「部活にまだ入っていないから、良い部活を探していたんだ」
「じゃあ……」
 進の声を遮るように水瀬は手で進の言葉を遮る。
「進君がいるなら、僕は野球部に入ろうって思う」
「水瀬が入るのなら俺も入ろう」
 水瀬の控えめな声の後に、大野の落ち着いた声が続く。
「大野君いいの?」
「ああ、剣道は家でも出来るからな」
 大野は水瀬の心配に首を横に振って笑みを浮かべる。その様子を見て、吉沢は安堵の表情を浮かべて、
「ようこそ、朝日丘高校野球部へ」
 進と共に新しく入った2人に歓迎の笑みを浮かべた。

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