その日、懐かしい奴に出会った。シニア選抜で三遊間を共に守った少年、吉沢修。県下屈指のショートストップとして名を馳せたあいつがどうしてこんな何の取り柄もない高校に来ているのかはわからない。
 ――何で、お前がここにいる、恩田雄大!
 だが、あいつが何かしらの目的を持ってこの学校を選んだのかは明らかだった。それが何なのかはわからないが、所詮は詮無きことのはずだった。
 なのにどうして俺は自宅の物置の目の前で立ち尽くしているのだろうか。
 答えは既にわかっていた。俺は野球に未練があるのだ。吉沢に負けている訳でもなかった。スラッガーとしてそれなりに有名だったし、有名校でもやっていける自信はあった。
 だが、ダメだった。自分に力が無かったばっかりに有名校の優待生にはなれなかった。
 それはシニアの遠征での出来事だった。大阪かどこかのシニアチームと対戦した俺のいたチームは、あろう事かノーヒットノーランを喰らってしまったのだ。
 そいつは圧倒的すぎた。プロでもすぐ通用するんじゃないかと思うほどのストレートを軸に、真横に大きく変化するスライダー、右打者を容赦なく抉るシュート、普通のピッチャーのストレート並みの速度から落ちるフォークボール。
 全ての打席で三振だった。3打席目までは何とかバットを振ることが出来たが、4打席目はバットを振らせて貰うことすら出来なかった。
 それをスカウトは見ていたらしい。選考落ちを経験し、俺は家庭の事情もあり、俺は朝日丘に進学することになった。
 野球はそれっきりやめてしまった。俺の家は母親1人しかいないし、経済的にもお金のかかる野球は厳しかったから。
 それを母に告げたときの寂しそうな表情は今でも鮮明に覚えている。だが、もう俺は選択してしまった。
 だからこそ後には引けない。俺は野球を辞めたのだ。物置に背を向けて歩き出す。振り返ることはもう決してない。



04 恩田vs進



東条真彦(とうじょうまさひこ)です。よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げたのは、水瀬と大野に続いて新入部員となった東条だった。サウスポーで野球経験者らしくはきはきとした感じは好感が持てる。創吉沢は思った。
「水瀬祐也です、よろしく」
大野隆行(おおのたかゆき)だ」
 つい先日野球部に入部した水瀬と大野は東条とは逆に野球の経験はほとんどないらしい。ただ水瀬は尋常じゃないほど足が速い。聞けば50m走で5秒台という驚異的な数字を叩きだしたらしい。一方で大野は剣道経験者で面構えだけ見ればそこら辺の強打者以上にも見える。
 悪くはない。吉沢はそう思う。実を言えば、後1人は当てが付いている。相当面倒な人物とは噂に聞いているが、その実力は捨てがたい。
 後は恩田とキャッチャーだ。恩田しかこの学校で4番を任せられるバッターは吉沢はいないと思っている。進のバッティングセンスも中々だが、エースで4番は負担が大きすぎる。
 だからこそ恩田は何としてでもチームに入って欲しかった。だが、立場が全く違う吉沢では恩田を説得するのは恐らく無理だと思われた。
「どうした、修」
 恩田のことについて考えていたら、進が何事かと訊ねてくる。進はシンプルな奴だ、楽しければ楽しいと顔に出る。ここではそれが何考えているんだと訊ねてくる表情に見えた。話しても良いか、吉沢は心の中で決めて進に切り出す。
「進、恩田って知っているか?」
「ああ、中学のトーナメントででっかい一発を食らった相手だ」
 進の脳裏にスタンドの奥にあった雑木林の中にボールがピンポン球のように飛んでいく姿がよぎる。進の自慢のストレートをあそこまで飛ばされたのは人生で二度目だったから、印象深かった。
「それで、恩田がどうした?」
「ああ、実はこの学校にいるんだよ」
 吉沢の言葉に進は一瞬耳を疑う。その様子に吉沢は苦笑しながらも真剣な表情で本当のことだと続ける。
「あいつは俺に言ったんだ。野球は辞めたって」
「……マジかよ」
 進の口から信じられないと小さく漏れた。進の知っている恩田はチームの中核を担うにふさわしい打者だった。実力的にも人間的にも。そんな奴が理由も無しに野球を辞めるとはにわかに信じられなかった。
「行くぞ、修」
 愛用のグラブを取り出し、ボールを手に取り立ち上がる進。その目は闘志に満ちあふれていた。恩田に一度会うつもりかと吉沢は進の考えをさとる。
「わかった」
 直進すればとまらないことはわかっているので、吉沢も覚悟を決めて立ち上がる。東条と水瀬と大野にグラウンドでキャッチボールをしておくように指示を出して、先に教室を飛び出した進の後を追う。
 件の人物はすぐに見つかった。そして既に進は件の人物――恩田雄大に突っかかっていた。
「何で野球を辞めた!」
「お前に言う義理はない」
 恩田は進の剣幕に押されながらも、恩田は冷徹に迫ってくる進を突き放す。だが、それで納得する進ではない。声が大きくなっているし、このままではトラブルになりかねない。
「吉沢、いるならこいつを止めろ」
 苛立った様子で進を強引に引き離そうとしながら、恩田は吉沢を強く睨み付ける。
「お前は野球を諦めてないだろ! 俺にはわかる!」
 進が恩田に飛びかかりそうなほど、強い口調で確固たる確信を持って告げる。
「確かに、そうだろうな。でなければ突っかかってこられてここまで過剰に反応しないだろ、お前の性格なら」
 吉沢も進の言葉で気がついた。恩田はきっと揺れ動いているのだ。野球を辞めなければならない何かの事情と野球をしたいという欲求の狭間で。
「そこまで言うなら、俺を納得させてみろ」
 不意に恩田が呟いた。進の右手にあるボールを指さし、一打席だけだと続ける。
「良いだろう、受けて立ってやる」
 進は鋭い視線を恩田に向けたまま、唇の端を少しだけ歪めて小さな笑みを浮かべた。



 夕日に照らされたグラウンドの端に進達野球部の面々と恩田の姿はあった。渡されたバットを黙々と振り続ける恩田を一瞥しながら、進は急造のマウンドの上でふぅっと大きく息を吐く。左手にはグラブ、右手には真新しい白球がそれぞれ握られており、準備は万端だ。
 ルールは1打席勝負。ヒット性の当たりが飛べば、恩田の勝ち。三振もしくはアウトになるような打球の場合は進の勝ちだ。進の本気のボールを取れる者はいないのでネットで捕球を行い、ストライク、ボールの判定は吉沢が厳密にジャッジを行うこととなっている。
「準備は良いな」
「ああ、さっさとしろ」
 短いやりとりの後、両者がそれぞれ構える。それを水瀬、大野、東条が横で固唾を呑んで様子を窺う。
 進がワインドアップ――大きく振りかぶって、両腕を天高く掲げる。躍動感溢れるオーバースローから放たれたのは白い色をした弾丸のようなストレートだ。狙いはアウトロー。投手の聖域だ。
 ボールがミットに収まる音の代わりに、ネットの中でボールが暴れる音がする。まずは初球、恩田はバットを出さなかった。
「どうした怖じ気づいたか?」
 口元に軽く挑発の意味も込めた笑みを浮かべながら、進は恩田に視線を投げかける。恩田は微動だにすることもなく、次早く来いと進に反撃する。
 2球目もストレートだった。コースは1球目と全く同じアウトロー。打てるものなら打ってみろという挑発だ。
「舐めるな」
 渾身の力でバットを振るう恩田。バットとボールが激しく交差して、後に大きく飛び跳ねネットを揺らす。
「ファウルだ」
 球威で勝ったが、それだけだった。お互いの力はほぼ互角だ。2球目で進の渾身のストレートにアジャストしてくるとは流石に恩田だ、素直に吉沢は感心した。
(さあ、どうする進)
 吉沢は進の選択をゆっくりと見守る。このままストレートで攻めれば、恩田にストレートを捉えられる可能性は充分にあった。そして進は恩田と対決したときとは違い、もう一つ大きな武器を持っている。
(あのフォークなら恩田を討ち取れるはずだ)
 吉沢の脳裏にはじめて進と対戦したときのことがよぎる。威力のあるストレートで散々攻められた挙げ句、最後のここ一番で落差のあるフォークボールで空振り三振を取られたのだった。
 進の絶対的なボールはストレートだがフォークでもある。この二つが西崎進という投手の核を成しているのだ。
 進が大きく振りかぶる。表情は絶対打たれるはずがないという確信。
 ボールがライフルのように手元から放たれる。
「……!」
 恩田も全身に力を込めて、向かってくるボールにバットを会わせようとスイングへと移っていく。
 ガキンと鈍い金属バット特有の音が辺りに轟き、響き渡った。

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