入学式が終わって、幾ばくか日にちが経つと校舎内には初々しさこそまだ残るものの、ごく当たり前の日常始まってくる。
 新入生歓迎ムードはまだ続くが、それももう少し経てば、自然と収まってくるのだろう。だが、そこまでは上級生にとっては死活問題となり得る事態がある。
 そう部活動の勧誘活動だ。朝日丘ではそこまで活発でない部活動だが、当然のように多くの部が存在する。学生生活のスパイスにもなるものだし、学校側も部活動を推奨することは多い。
 上級生が慌ただしく動き回る中、部活動用の掲示板の前でごそごそと何やら動き回る二つの影。真新しい制服に身を包んだその2人こそが、西崎進と吉沢修だった。
 進の担任・吉野先生に何とかOKサインを出して貰った2人は、条件提示された9人揃えるという目的のために、部員集めに奔走しだしていた。
「こんなもんでいいか?」
「進、斜めになってるぞ……」
 進が二本目の押しピンを押そうとするのを制止しながら、吉沢は角度の歪んだチラシを正しく戻す。
 チラシ自体の出来は中々だ。吉沢が書いたわけではないが、進の制作でもない。万が一進が書いたらさっきのチラシの張り方のように大ざっぱなものしかできないはずだ。
 進曰く、前の席の奴と仲良くなったので、作ってくれたとのこと。チラシを見る限り、男が作ったものだが丁寧な文字と工夫されたデザインはチラシとしては十分だ。
「よし、ここはこれで良いな」
 最後のピンを刺し終えながら、進はぽんと手を叩いた。どうやら張り終わったらしい。
「さぁ次行くか。職員室前の掲示スペースもチラシを貼って良いらしいからな」
「おう」
 何故か威勢のいい声を上げながら、進はチラシの山を持ち上げてその場を離れる。その後を吉沢が苦笑いを浮かべながら、ゆっくりとついていく。
 そんな2人の様子を遠くの方から窺いながら、少女はゆっくりと掲示板に近づいて野球部のチラシを食い入るように見つめていた。



02 勧誘開始



「はぁ、誰も来ない……」
 教室にある自分の机に体を預けて死んだ蛙のような声で進は吐き出す。放課後の教室は進を除いて人っ子1人いない。吉野先生に呼ばれて出かけている吉沢は既にここにはいない。
 ビラ配りなどを行って早数日。始動が他の部活に比べて若干遅かったのもあり、勧誘の成果は全くと言って良いほど芳しくなかった。すなわち全滅。1人も現状では入って来てくれないのだから、たまったものではない。
 1人でも仲間がいればキャッチボールなども出来るし、進も退屈せずに済むのだが、この状況ではどうしようもない。
「昼寝でもするか」
 昼という時間からはほど遠いが、小さく欠伸をして進は腕に顔を埋めようとする。
「あれ、西崎じゃないか。どうしたんだ、こんなところで」
 ガラガラと扉の下にある滑車が回る音がして、進は顔を上げて声を掛けてきた人物を凝視する。
「中川か」
 姿を現したのは、中肉中背の人の良さそうな少年だった。名前は中川司(なかがわつかさ)と言い、実は野球部のチラシを作った張本人だ。
「いやー、暇でさ」
 キャッチボールも出来ないしと欠伸をしながら伸びをした進は、司にもう一度目を向ける。
「中川、やっぱ野球部に入ってくれないか?」
 進の勧誘に複雑そうな表情を浮かべる中川。以前、進に勧誘されたことがあったのだが、それも断っていた。
 だがそんなことでめげるような性質ではない。進は何を思ったか立ち上がると、グラブを袋から取り出し、中川に向かって無造作に放り投げる。
「入るか入らないかは今すぐ決めなくて良いから、キャッチボールくらいはしようぜ」
 かろうじてグラブを捕まえた中川に向かって、進は笑顔を浮かべて右腕を大きく回した。
 数分後、2人の姿はグラウンドの片隅にあった。進の右手にはボールが握られており、中川のグラブに向けてしゅっと空気を切り裂く音と共にボールが放たれる。
「……っ!」
 器用な動作でそれを受け止める中川。まだキャッチボールをはじめたばかりなのに進の放つボールは重く、そして速かった。
 進のボールに驚きながらも、中川は早くしろと合図を送ってくる進に頷き、右手でボールをつかみ取る。
 ゆったりとした動きとモーションで中川は細心の注意を払いながら、ボールを右手から放つ。進のまっすぐ来るボールとは異なり、ボールは緩い山なりの軌道を描きながらも進のグラブを寸分たりとも動かさず収まる。
「お、良いボール投げるじゃないか」
 言葉と共に進がボールを返してくる。一球目に比べ、さらに速く、そして力が入っている。だが、進自身は力を入れてはいない。あくまでも軽いキャッチボールをしている仕草だ。
 ぴりっと左手に電流が走る。中川の左手の細胞が悲鳴を上げ始めているのを感じた。
(とんでもない奴だ……)
 実を言うと中川は少しは野球をかじったことのある身だ。キャッチボールも当然数えきれぬほどしているが、それでも進のような球を見たことがなかった。
 驚愕の念を覚えながらも中川は丁寧に進へとボールを投げ返すのだった。
 一方進も手元に帰ってきたボールをグラブから取り出しながら、少し嬉しくなっていた。
 中川の放つフォームは実に綺麗で基本に沿っている。野球の教科書に載ってもおかしくないレベルだ。基本である相手の胸元へもきっちり来ているし、何より進は投げ合っていて凄く楽しかった。
 吉沢以外知り合いもいない、初めての高校生活で意気投合した人間だ。このキャッチボールでこいつとなら仲良くやっていける、そんな確信が進の中にあった。
「もう一球!」
 進は大きく振りかぶりながら、笑顔を大きく膨らました。



 進が中川とキャッチボールを始めた頃、吉沢は吉野先生に呼び出された用を済ませ、自分の教室へと戻ろうとしていた。勧誘は今のところ成果は上がっていない。周知に関しても遅れたのが痛かった。他の部は上級生もいるし、前の学期から準備自体は進めていたので、どうしようもないのだが、それでも入部希望者がここまでいないのは想定の範囲外だった。
「さて、どうするか……。ん?」
 思案にふけろうとしていた吉沢の前を1人の大きな影が横切っていく。何となく目を遣った先には、見たことのある後ろ姿があった。
「おい、お前、恩田じゃないのか?」
 不意に名前を呼ばれて長身の少年が立ち止まる。吉沢と同じ1年であるのはバッチや下履きであるのはわかる。180cm近くある身長は吉沢から見れば相当大きく感じられた。
「お前は…………吉沢か」
 随分と醒めた声だった。吉沢の知っている恩田の声とは随分違って聞こえる。シニアで戦ったこともある間柄だ、そして選抜チームで同じユニフォームを着た仲間でもある、その時の様子とかなり違うことに吉沢は戸惑いを覚えた。
 何故恩田がここにいる。有名な強豪校にも行けたはずなのに――と感じた疑問は不意に開かれた恩田の口から発せられた言葉でかき消される。
「何でお前がここにるんだ、吉沢。お前がこんな高校にいるべき素材じゃないだろ?」
 先制攻撃だった。その言葉の裏には俺に関わるなと言う意志が強く込められていた。
 呆然と佇む吉沢に用はそれだけかと小さく訊ね、恩田は踵を返して廊下を歩き始める。
「何で……」
 吉沢の声に不意に恩田の歩くスピードが緩む。
「何で、お前がここにいる、恩田雄大(おんたゆうだい)!」
 吉沢の大きく響く声に、恩田は顔を向けることなく、ただその場で佇むだけだ。
「…………俺はもう野球を辞めた。それだけだ」
 吉沢の強い視線を感じながら、恩田はそれだけ呟くと、無言でその場を後にした。残った吉沢は遠ざかっていく恩田の背中をその姿が見えなくなるまでじっと強く見据え続けていた。

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