ぴちゃんぴちゃんとどこからともなく水の音があたりに響き渡る。あたりの薄暗さと相まって、不気味な雰囲気を醸し出しているのは、10年ほど前、経営難で廃業を余儀なくされたとある病院だった。
 懐中電灯のオレンジの光が暗がりの辺りを照らす。密着した一組の男女が寄り添いながらゆっくりと廃墟と化した病院の中をうろついていた。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
「心配するな。俺はこう見えても空手の有段者だぞ。何か出たら追っ払ってやる」
 腕を前に突き出し、構えを取る男に女は甘えたように体をすり寄せる。
 じゃあ、先に進むかと女を見つめる男と、その瞳をじっと色の籠もった目で見ながら頷く女。だが、それも一瞬だった。どこからともなく聞こえてくるぎりりと軋みを立てたような音。
「これってもしかして……」
「ああ、ラップ音だ」
 男は自信ありげに音のする方向を一瞥する。軋んだような不快な音は止むことなく断続的に大きくなっているようにも聞こえる。
「ねえ、近づいてきてない?」
「もしかしたら本物の幽霊かも知れないな」
「え、本当?」
 期待と不安の入り交じった表情を浮かべながら、女は音のする方向をじっと見つめた。
「ほーら、そこに……」
 ぱっと懐中電灯が消え、二人の悲鳴が静かに落ちる雨漏りの音をかき消し、辺りに響き渡った。





第2話 怪奇、幽霊病院





 桜の花も盛りを過ぎはじめ、かわりに初々しい緑が芽吹こうとしている。きらきらと舞い降りる太陽の光を浴びる桜の木は生命を感じさせるようにも思える。
「ただいま!」
 そんな午後の昼下がり、元気な声と共にからんからんと扉に付けられたベルが涼やかな音を立てた。すぐに店の奥にまだか細い肢体にセーラ服が映える少女が足を踏み入れてくる。
 龍はじっと眺めていた新聞から目を離し、セーラー服の少女に笑みを向けた。
「おかえり、加奈」
「ただいま、お兄ちゃん」
 ポニーテールにまとめられた艶やかな黒髪がくるりと揺れ、少女は龍の前で足を止める。まるで日本人形のような艶のある黒髪に色白の肌の少女は青木加奈。龍の妹で、よろず屋に居候をしている。
「何か良いことでもあったのか、やたら嬉しそうな顔をして」
 龍は再び視線を新聞に移しながら、穏やかな表情を浮かべて訊ねる。
「あ、わかるんだ。お兄ちゃん」
 少し驚きながらも笑顔を浮かべ、加奈は頷く。龍は当たり前だと新聞を丁寧に畳んで、ゆっくりと立ち上がる。
「俺はお前の兄貴なんだからな」
 ぽんっと加奈の頭に手を置き、龍は優しい声音で呟いた。
「それに、新しいクラスにも慣れたんだろ?」
「うん、今度、親睦会をすることになったんだ。楽しみだなぁ」
 加奈の頭からそっと手を放すと、加奈は嬉しそうにも楽しそうにも見える笑みを浮かべる。
「あ、加奈ちゃんおかえり〜」
 とそこに店の奥からこれまた元気な声がして、加奈と龍は同時に姿を現す少年に目を向けた。創がノートパソコンを抱えてやってきたのだ。
「何するんだ?」
「ん、ちょっと狩りをね」
「ここでやるな」
 パソコンを置いて画面を開く創に、ぱこんと龍の拳骨が降ろされる。目の端に涙の粒を浮かべながら痛てて……と顔をしかめる創。ちなみに狩りとは今流行のオンラインゲームのことだ。
「ケチだな〜、龍は」
「ケチでも意地悪でもないからな。当たり前のことだ」
 先程怒られたことを気にも留めずさっさとパソコンに向かいはじめた創を諦めてから一瞥して、龍は呆れた様にため息をついた。
「そう言えば加奈ちゃん、学校はどうだった〜?」
 かたかたと凄まじい速度でキーボードを叩きながら、創は加奈の顔をちらりと見た。
「親睦会で肝試しをすることになったんだ」
「肝試し?」
「うん」
 加奈の思わぬ言葉に反応したのは、創ではなく龍だった。加奈はそんな龍の様子を気にかけずに続ける。
「長谷君とシュンちゃんと真穂が中心になって、今度の土曜日に何年か前に潰れた病院で肝試しをやることに決まったんだ」
 ちなみに加奈の挙げた3人はいずれも加奈の友人であり、今回の肝試しの立案、実行の中心人物だそうだ。
「それって、もしかして幽霊病院で有名な、高洲恵方会病院かな?」
「あ、それだよ、創君」
「知ってるのか、創?」
 凄まじいスピードで動いていた指を止め、創は加奈に問いかける。龍は驚きの表情を浮かべ、創に詳細を訊ねる。
「うん。その手のマニアの間では有名な場所だからね」
 マウスを数度クリックして加奈と龍に画面が見えるようにノートパソコンを反転させる。
「高洲市、9大ミステリーか……。何か怪しいサイトだな」
「まあ、そうだね〜。ちなみに9大ミステリーの中には大地山の奥に眠る秘宝とか高洲市営球場の下には巨大な焼き肉プラントがあるとかっていうのがあるんだよ〜」
 余談ではあるが大地山は高洲市の北に位置し、標高1534mで修験道の修行の場としても名高い霊峰である。古くから色々な伝承のある、いわば歴史のある山なのでこの手の話は多い。
 余計うさんくさいなと更に眉をひそめながら呟く龍を気に留めず、創はつつけて別のページを開く。
「あった。これだ」
「なになに……、赤い血にまみれた幽霊病院。ラップ音やポルターガイストも多発……。何だこれ」
 龍はページに書かれたおどろおどろしい文句に顔をしかめた。黒の背景に血をイメージさせる赤い文字。悪趣味な髑髏も映し出されている。
「典型的なオカルトページだよ。ここにある情報は基本的にガセだと思って良いよ。血の色は鉄が錆びたもの。ラップ音って言うのはある程度古い建造物では中にある材木がひび割れたりするときの音なんだ」
「へぇ、詳しいね。創君は」
「色々情報をいつも集めているからね」
 加奈の感心した声に創はえへへと照れたように笑みを浮かべる。
「幽霊なんかいないと思うが、気をつけろよ」
「わかってるよ。お兄ちゃんは心配性なんだから」
 龍の真剣な表情に加奈は朗らかに日だまりのような笑みを浮かべて、頷く。
「そうだよ。加奈ちゃんにそんなこと言う必要ないよ〜」
「お前が言うな」
 龍にこつんと拳骨を落とされて頭を抑えて、痛いなぁと嘘泣きする創。そんな二人のやりとりを眺めながら、加奈は暖かな春の日差しの様にくすりと微笑んだ。





 空は厚い雲に覆われていて、季節が少し逆に戻ったかのように肌寒く感じる。土曜日に行われる親睦会――肝試しに向かう加奈の表情は、空とは裏腹に楽しげだった。
「それじゃあ、行ってきます」
「ああ、気をつけてな」
 そんな妹の様子をじっと後から眺めながら龍はふうっとため息をついた。一息つこうとした矢先に忙しなく携帯のバイブが揺れはじめる。
「依頼か……」
 携帯を手に取り、創からの連絡を受ける。龍はすぐに兄の表情からよろず屋のリーダーとしての表情へと切り替え、素早くよろず屋へと向かった。
「お待たせしました」
 落ち着き払った表情を浮かべたまま、龍は既によろず屋の中で依頼を話している男に声をかけた。
「お、龍か。遅かったな」
「大塚警部……ですか」
 よれよれの背広を着た恰幅の良い男は、にかっと人好きのする笑みを浮かべた。この男は警視庁捜査一課の大塚雅之。主にこの地方の重大な事件に当たることの多い凄腕の警部である。よろず屋とはとある事件を共に解決して以来、何かと縁の深い人物でもある。
「さっきまで、創坊と白神の嬢ちゃんには今回依頼したいことは話したんだが、簡単にもう一度話したいと思う」
「お願いします」
 真剣な表情を浮かべた龍に、話すだけなんだからそう堅くなるなと苦笑を浮かべる大塚警部。それでも真剣なままの龍に苦笑いを続けながらゆっくり口を開く。
「ほんの一週間くらい前だ。一組の男女の死体がとある場所から見つかったんだ」
「とある場所?」
「ああ、数年前に廃業になった病院だ。取り壊しが予定されていて、たまたま調査に来ていた人間が死体を見つけたらしい」
 少し引っかかりを感じながらも龍は話を続けてくださいと大塚警部に促す。
「死体の様子から、他殺と判断されてな。捜査に乗り出すことになったんだ」
「その殺され方は?」
「バラバラだよ。不思議なことにすぱっと真っ直ぐに肉も骨も切れていたそうだ」
「切断面が真っ直ぐってことか……」
「ああ。そうだ。それに血で大きくDEATHと書かれていたらしい」
 全くどうなってんだかと首を横に振りながら大塚は胸くそ悪そうに吐き捨てる。
「まあ、ここまでは最近のおかしな世の中ではあってもおかしくないことだ。だが、不可解なのはその後だ。突然、上から捜査の打ち切りを通告されてな」
「なるほど確かに裏がありそうですね」
「まあ、ここまでは創坊と白神の嬢ちゃんにも話したんだ。そういえば、赤羽と黒沢の野郎はどうしたんだ?」
「別の依頼を受けてるよ〜」
 店の奥から聞こえてきたのは創のまだ声変わりをしていない幼い声だ。一呼吸置いて白神がやってきて、それに創も続いてくる。
「創、やたら重装備だな……」
「だって幽霊病院だよ。わくわくするじゃん〜」
 何やら大きなリュックサックに色々詰め込んだ創はまるでピクニックに行く前の子供のように緊張感が感じられない。
「あのな、山登りに行くわけでもないんだぞ?」
「わかってるよ。そんなの」
 何を言っても仕方ないと肩をすくめた龍は、大塚に続けてくださいと声をかける。
「ああ、そうだな。打ち切られたあの事件には裏がある。それを調べて欲しい」
「警察は完全に撤退したんですか?」
「ああ、今じゃ非常線も何も貼ってないよ」
 悔しげな感情を言葉の節々に臭わせながら、大塚は顔をしかめる。
「ところで、その病院は?」
「ああ、高洲の市街地から少し離れた場所にある、高洲恵方会病院ってとこだ」
「!」
 龍が表情を硬くして、急に立ち上がる。その様子に大塚は驚いたように顔を上げた。
「まずい……」
「どうしたの、龍君?」
 硬くした表情のまま呟く龍に、白神は不思議そうに訊ねる。
「加奈が、危ない」
「え、加奈ちゃんが……」
「こうしてはいられない。行くぞ、創、理恵」
 どこからともなく鞘に収められた刀を取り出した龍は、血走った様にも見えるほど、切迫した口調で二人に訴えかける。
「お、おい。ちょっと待て」
「詳しいことは、病院に向かいながら話します」
「あ、ああ……」
 有無を言わさぬ龍の強い口調に、大塚は何も言い返すことが出来なかった。空を覆う雲は徐々に厚みを増し、今にも泣き出しそうな様相になっていることに白神は言いしれぬ不安を覚えるのだった。





「ここが、幽霊病院か。何か雰囲気あるな」
「でしょ? いかにも出そうな感じだよね」
 暗くじめじめした病院の中を10名ほどの中学生が懐中電灯を片手に歩き回っている。その集団の中には加奈の姿もあった。
「ねえ、真穂。ここって本当に大丈夫なの? 何か嫌な予感がするよ……」
「もう、加奈もさっきまで乗り気だったのに。入って怖くなったの?」
 上着の裾をぎゅっと握りながら、加奈は同じ部活で親友――久野真穂に少し青ざめた顔を向ける。そんな加奈に呆れて真穂はふうっとため息をつく。なんてことないじゃないと事も無げに言ってみせる。
 そんな親友の姿を見ながら、加奈はそれでも不安を拭いきれなかった。何となくだが、ここには明確な悪意のようなものを感じるのだ。どうしてそう思うのか加奈にもよくわからないのだが。
「お、加奈が怖がってる。そそるなぁ〜」
「ちょっと、シュン。馬鹿なこと言ってないでさっさと進みなさいよ」
「ひえー。真穂は怖えなぁ」
 シュンと呼ばれた小柄な少年はおどけたような口ぶりでケラケラと笑った。そんな様子を見ていた加奈の顔からも自然と笑みが少し花開く。
 だが、それも長くは続かなかった。
「なあ、どこかから、変な音が聞こえてこないか?」
 誰かが言った言葉に加奈を含めた全員が耳を澄ます。ぎぃっと何かを研ぐような音が連続的に続いていて、気分が悪くなる。
「何だろう、この音?」
「ラップ音?」
「まさか、冗談言わないでよ」
 絶えることなく続く奇妙な音に、色めき立つシュン達。そんな様子を呆れながら真穂は辺りを見回し、体をこわばらせた。
「ねぇ。何かいるよ……」
 真穂の声に盛り上がっていたシュン達も音のする方向に顔を向け、顔を青ざめさせた。
「おいおい……。何だよ、あいつ」
 シュンは両手に包丁のような鋭利な刃物を持った男を指さした。その指先は微妙に震えているように見える。加奈は男を見て、悟った。明確な悪意はこの男のものだと。
「逃げて、みんな!」
 男の動きに金縛りのように動けなくなっていた友人に加奈は大声で叫んだ。はっと我に返るシュン達は、慌てて逃げるぞと、駆け出す。
「加奈も」
 真穂がその場を動こうとしない加奈に声をかける。しかし加奈は首を横に振り
「真穂ちゃん、そこの鉄パイプをお願い……」
 壁に張り付いている細長いパイプを一瞥し、真穂を見つめる。
「でも……」
「いいから。このままだと、シュンちゃん達も巻き添えを食らっちゃうから」
「……わかったわ」
 不安げにではあるが頷いた真穂は、近くのパイプを鋭く蹴り上げ、たたき落とす。
「これでいいのね」
「うん。ありがとう」
 真穂ちゃんも早く逃げてと鉄パイプを拾いながら、加奈は真穂の目をちらりと見る。だが、真穂は首を横に振って、ため息をつくように口を開いた。
「いくら加奈が剣道が強いって言っても、加奈一人に任せられるわけ……」 
 そんな真穂の言葉は最後まで続かなかった。ガキンと刃物と鉄パイプが交差する音。男はいつの間にか真穂の後に回り込み、真穂の首を狙っていたのだ。
「真穂ちゃん!」
 切迫した口調で親友を呼ぶ加奈の背中が、逃げろと語っている。本能的に殺されると感じた真穂は親友を置き去りにするということとの間に板挟みになり、身動きがとれなくなった。
「くっ」
 ぶんっと鈍く空気を切り裂く音がして、男は一歩後に下がった。加奈は鉄パイプを袈裟懸けに構えたまま、じっと男だけを見据えて隙を窺う。
 だが、加奈は静寂の中に勝機を見いだすことは出来そうになかった。この男は普通の人間じゃない、そう加奈の本能が伝えていた。
 じりりと前に出る加奈。少しずつ間合いを計りながら、男の隙がないか僅かな希望を見いだそうする。
「はっ!」
 先に動いたのは加奈だった。裂帛の気合いと共に、鉄パイプが竹刀のようにしなる。だが、そんな加奈の剣筋を見破ったかのように、男は無造作に一本の包丁のみで、鉄パイプを止めてしまった。
「しまっ……」
「ああああ!」
 加奈の攻撃が止められたのを見て、真穂の体は自然と正拳突きを男に見舞おうとしていた。だが、それは空手の有段者である真穂にしてはあまりにもお粗末で隙が大きすぎた。
 ずぶっと何かが裂ける音がして、真穂の拳が男の前で止まった。加奈の色の白い顔に真っ赤な液体が飛び散る。真穂の血だった。
「いやぁああああああ!」
 加奈の悲鳴と容赦ない鈍い金属を打ち据えるような音が病院内に響きはじめた。





「いよいよ、雲行きも怪しくなってきたね」
 どんどんと闇を含んでいくように暗くなる空を窓からじっと眺めながら、白神は不安げにぽつりと呟いた。ナチュラリーブラウンの髪が風に揺れてsらりと流れている。
「ここか」
「うん。そうだよ」
「全く、嫌な雰囲気がする場所だな……」
 龍は運転席から降りると、くすんだ灰色の建物を一瞥した。高洲恵方会病院は黒ずんだり痛んだりして整備が全く行き届いていない、まさに幽霊病院といった風貌だ。
 そんな幽霊病院を臨んでも、龍は臆することなくさっさと建物の中へと消えていく。
「あ、待ってよ」
 慌てて、創が後を追いかける。そんな様子を見て、大塚は白神を一瞥し、先に行けと促す。
「え、でも……」
「いいから。あいつら二人だけだと不安だ。それに……」
 大塚は龍が入った入り口とは別の出口から出てくる少年、少女を一瞥し、すでに何かが起こっているようだからなと渋い顔で呟いた。白神は黙って頷くと、龍達の後を追いかけるべく走り出した。
 そんな白神の後ろ姿を見ながら、大塚はやれやれ面倒なことになったなと嘆息しながら、少年達へと近づきはじめた。
 大塚の姿に少年達はびくりと体をこわばらせ、警戒したような視線を投げかけてくる。大塚は苦笑するしかなかった。
(どうやらかなりやばいことが起きているみたいだな)
 警察手帳を少年達の目に入るように、できるだけ怖がらないように近づく。
「刑事さん?」
「ああ、ここで何があったんだ?」
 なるべく優しい口調で教えてくれと丁寧に訊ねる大塚。少年達は口々に包丁や男と言った言葉を発している。
「あ、そういえば、加奈と真穂が、まだ戻ってきてない……」
 誰かが言った小さな言葉は、大塚の耳にこびりついた。確か肝試しでこの病院を訪れているという龍の妹の名前は、加奈。
「まだ、二人。戻ってきてないんだな? その二人を見つけたら連絡するから、君たちは安全な場所に行きなさい」
 内側にこみ上げてくる嫌な予感、不安を表に一切出すことなく、大塚は知り合いの警官に連絡をし、安全な場所の確保をする。
 まだ、おびえた様子の少年達を一瞥しながら、大塚は龍達を飲み込んでいった幽霊病院の不気味な出で立ちを静かに睨んでいた。





 こつんこつんとどこからともなく何かが響くような音が続いている。外から見ても幽霊病院の出で立ちだった高洲恵方会病院の中はそれ以上に幽霊病院の様相を呈していた。
「これは酷いな……」
 恐らく本物の血で書かれた見ているだけで胸くそ悪くなる言葉の数々。悪意がここには満ちている、龍は瞬時にそう悟る。
 だからこそ、急がなければならない。龍はさらに歩くスピードを速め、音の出所へと近づいていく。
 そして病院の診断室と思しきスペースから音が出ているのに龍は気がついた。何かを殴るように鈍い音が大きく響き渡る。
「まさか……」
 龍は頭に浮かんだ最悪の状況を振り払うかのように、診察室の中へと駆け込む。
「…………加奈!」
 龍はぐっと息を飲んだ。男に踏みつけられた加奈は自慢の黒髪が乱れ、あちこちに酷い出血、傷を負っていた。さらにその隣では、腹部から大量の血を流している少女。龍はその少女に見覚えがあった。加奈の友人の真穂という少女だ。
「おい。そこまでにしろ……」
 ぐっと低い声で加奈を踏みつけてにやっと笑みを浮かべた男にすらりと抜いた刀を向ける。
 男は刀を向ける龍の姿を見ても、笑みを崩さず、そのまま両手に持った刃物を伴い、龍に飛びかかる。
 だが龍はそれを受け止めることなく、男に蹴りを鋭く回し、診察室から吹き飛ばす。ずどんという音と共にぼろぼろの壁にぶつかる男。
「さて、この落とし前はたっぷりつけてやる」
 ようやく追いついた創と白神を一瞥しながら、すごみのある目で男にじっと睨みをきかす龍。
 隣を通り過ぎる白神に小さく、加奈と真穂ちゃんを頼むと呟き、龍はその場でぶんと刀を一降りした。
 すると今まで普通の白銀を誇った刀身が漆黒の色を持ち、ぎらりと妖しく揺れる。
「創、守りは頼んだ」
「わかったよ。……銀守閣」

 既に二人の治療に入り始めた白神を守るように前に立った創は、どこからともなく取り出した淡い輝を放つワイヤーを素早く貼り巡らし、鉄壁の銀の盾を形成する。
「さあ、お前が何者なのか、どうして加奈をこんな目にしたのか洗いざらい吐いて貰おうか」
 いつもの鋭い瞳にさらに怒りという名の炎を宿し、龍は立ち上がった男に漆黒の刀を向ける。
「……黒竜の牙。龍の本気かぁ〜」
 創はワイヤーを張ったまま、激しく男に斬りかかる龍を一瞥し、呟いた。
 男は相変わらずにやにやと下劣な笑みを浮かべたまま、龍の漆黒の刀――黒竜の牙を受け止める。
「燕返し」
 刀を受け止められた龍は、男を睨みながら、小さく呟く。ふと龍の力が緩んだかと思うと、素早く龍は刀の軌道を変え、押さえるものがなくなり無造作に振るわれていく刃物を気にもせず、男に斬りかかる。
 ぶしゅっと肉が切れる音と、低く男が沈む音。龍は何の感慨も見せることなく、黒竜の牙を鞘に収める。
「燕返しで刀の軌道を変えた上に、そこからトップスピードでの斬激・燕殺……。この二つを組み合わせる、飛んでいる燕すらも落とす飛燕殺を使った上に、相手を殺さない技量。真似できないなぁ〜」
 銀守閣を解き、男を縛り上げながら、創は龍を一瞥して、感心したように呟く。
「創、しばらくこいつの見張りを頼む。俺は大塚さんを呼んでくる」
「了解〜」
 龍は治療を終え、冷たい地面の上で横になっている加奈のところへと行き、隣で汗を拭う白神に声をかける。
「理恵がいて、助かった」
「いいの。気にしないで」
 龍は高い治癒の能力を持つ白神の肩をいたわるようにぽんと感謝を込めて軽く叩いた。白神の治癒が迅速だったため、二人にはほとんど傷跡は残っておらず、出血のため、顔は青ざめているが、命に別状はなさそうだ。
 ふうっとその場にいる人間が安堵の表情を浮かべた、その時だった。ぶさりと縛られていた男の首筋に大きな刃物が突き刺さり、ぐったりとする男。小さな息はすぐに消え、だらんと手から力が抜けた。
「えっ……」
 男を拘束していた創が童顔でくりっとした目を大きく見開く。そんな創の前に黒装束に真っ白な仮面を付けたひと組の男女と思しき影が降り立った。
「何のつもりだ」
 龍は黒竜の牙を素早く抜きながら、切っ先を二人に向ける。二人のうち男が一歩前に出てくる。創は警戒したまま後に下がると、龍の隣でいかがわしそうに二人を見た。
「この男は我々の獲物だ。邪魔をしないで貰おうか。任務に支障が出る。青木流の正当継承者」
 男は刀を向ける龍を一瞥して、無造作に言い放つ。龍はいつにも増して鋭い闘気を放ちながら、相手をじっくりと観察する。ローブのようにも見える闇のような黒装束、模様の一切ない、黒装束とは対照的な真っ白な仮面。そして、手の甲に刻まれた剣の入れ墨。
「……お前達、『帝の剣』だな」
 龍は二人を交互に一瞥すると、黒竜の牙を鞘に収めた。突然龍が刀をしまったため戸惑う創に、余計なことはするなと目で忠告する。
「流石、青木流の正当継承者……」
「で、どういうことか説明して貰おうか」
 龍は鋭い目はそのままに男の声を遮った。男の体がぴくりと揺れた、そんな感じがした。
「それは言えないな。我らが帝の勅命だからな」
 男の言葉には有無を言わさぬ拒絶が込められていた。龍はこれ以上の受け答えは無駄だと判断し、好きにしろとぶっきらぼうに言い放った。
「ちょ、龍……」
「やめとけ、創。あいつらと関わるとロクなことにならないぞ」
 手早く男の死体を持ち上げた仮面の男を一瞥しながら、龍は創の肩にぽんと手を置く。
「……でも」
「奴らはこの国の一番のお偉いさん――天皇の直属の凄腕だと言われている。俺やお前でも戦ったら、ただではすまない」
 さっと消えてしまった帝の剣のいた跡を一瞥し、龍は大きくため息をついた。創を宥めているといえ、龍自身も納得しているわけではないのだ。
「おーい、大丈夫か」
 その場にへたり込んだ創は大きな声を聞き、顔を上げる。息を切らした大塚がやってくる。
「どうした?」
 息を整えながら大塚は厳しい表情を浮かべる龍と創を交互に見やる。ぴりぴりとした雰囲気に戸惑う大塚。
「『帝の剣』だ。警察関係者なら聞いたことがあるでしょ?」
 龍の口から出た言葉に大塚は大きく目を見開き、縦に首を振った。警察に圧力を掛けられる組織であるのは、ある程度の地位にいる者なら当然知っている。
「まさか、あれが関係しているとはな……。道理で上からの圧力があるわけだ」
「ええ、これ以上は俺達にとっても、大塚さんにとっても危険ですね」
「だな。すまないな、厄介ごとに巻き込んでしまって」
「気にしないでください」
 まさかこれほどの大物がからんでくるとは予想していなかったのだろう。大塚は少し申し訳なさそうに頭を掻く。
「ところでそこの二人は大丈夫なのか?」
「はい、何とか。治療は間に合ったので、後は心のケアをしないといけませんが」
 大塚が血色の悪いままの加奈と真穂を一瞥する。白神は余った包帯をくるくると巻きながら答えた。
「すまないが、今回の依頼はここまでだ。どうやらここで殺戮を行っていた男に関してはあれが処分したはずだからな」
 深々と頭を下げる大塚の表情はわからないが、悔しいことは間違いないだろう。だが、これ以上、『帝の剣』と関わると最悪命を落とす恐れもあるのだ。
「いえ、こちらこそ力になれなくてすみませんでした」
 龍はぐっと拳を握りながらぽつりと呟いた。その声は虚しく薄暗い病院の中に響き渡った。





 朝、いつもと同じように目が覚めた。だが加奈はいつもと何かが違うように感じた。部屋に入ってくる朝の光がないのだ。
「やっと起きたか。心配したんだぞ」
 妙にけだるい感覚の加奈に隣から聞き慣れた声がする。
「お兄ちゃん……」
 兄である龍の顔を見ていると、何故か涙が溢れてきた。するとようやくあの幽霊病院の中での出来事が蘇ってきた。
「……ねえ、真穂ちゃんは?」
「大丈夫だ」
 加奈の消え入るような声に龍はそっと絹のように柔らかい加奈の黒髪をそっと撫でる。
「それよりも、俺はお前が無事で良かった。無茶はするな、自分の力を過信するな、それだけは言っておく」
 裏の人間と戦おうとしていたんだからなと射貫くように真剣な兄の瞳を見て、加奈は黙ってこくりと頷く。
「遅いが、朝ご飯を取ってきてやる」
 龍は立ち上がると、加奈の部屋から朝食を取りに出て行く。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
 大きくたくましい兄の背中から視線を外さないで、加奈はそっと濡れた瞼を拭った。

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