夜の空気はどこか澄んでいて涼しげに感じるものだ。日中こそ夏を思わせるような強い日差しが降り注ぐが、梅雨を前にしたこの季節は夜中は比較的過ごしやすい。
 だが、そんな夜の密やかな雰囲気も今日に限って言えば、どこかに消えているように感じられた。
 熱帯夜でもないのに、嫌な汗がTシャツの奥でゆっくりと流れ落ちる。冷えてきたはずの辺りの空気が頬を撫ぜ、ぴりぴりと痛みに似た感覚が神経を通して伝わってくる。
 ざわざわと雑木林が風を受けて、震えるように揺れ動いている。まるでこの辺り全体が何かに怯えているようにすら感じてしまう。
 全く持って嫌な雰囲気だ。顔をしかめながら、神谷裕一郎は鋭く眼を細める。
 ――一般人なら逃げ出しかねないぞ、この雰囲気は……。
 エナメルの鞄を舗装がはだけて人通りの少ない道路の片隅に置きつつ、神谷は周囲をゆっくりと見回す。
 何かが起こっているなと神谷はすぐに察する。この雰囲気は異常すぎる。
 どう動くべきか逡巡していると、不意に近くの雑木林から殺気が膨大に膨れあがり、神谷に向けて何かが一気に距離を詰めてくる。
「これは……!」
 神谷は殺気の主を目にして、表情を強ばらせた。元居た場所を飛び退いたと同時に、道路が音を立てながら大きく陥没する。
 それは巨大な芋虫だった。毒々しい模様にくねくねと動く体。小さければまだ可愛いかなと思えるそれも人の大きさほどあれば気持ち悪さしか感じられない。
「妖魔か」
 神谷は毒々しい出で立ちの巨大芋虫に向かって吐き捨てる。芋虫は肯定するかのようにその見にくい顔から一本の角を飛び出させる。
 妖魔――それは、この世に存在するはずのない魑魅魍魎の数々の総称だ。人が産み出すものもあれば、どこか別の異界から紛れ込んできたものもいると言われる未知の存在。そしてそれは人を含めた生きとし生けるものに容赦なく牙を剥く。
 辺りを大きな殺気が爆発的に包み込んだと同時に、山のように巨大な芋虫たちが雑木林から飛び出してくる。
「来たれ、蛇薙」
 神谷は芋虫の妖魔を一睨みすると、右手に持った小さな紙切れを放つ。音もなく紙切れが爆ぜ、宙に大人程の長さの棒が現れる。
 それをつかみ取ると、神谷は両手で構えを取り、飛び跳ねた。
 この世には、人の仇なす人外の者達と命を賭して戦い、この世から屠り去る者達が存在する。
 神谷裕一郎も己が武器を振るい、妖魔を屠る人間――退魔士の1人だった。



姫君の邂逅



 血なまぐささと昆虫独特の何とも言えない臭いが辺りに充満して気分が悪い。幸い、風も吹いており直にこの臭いも薄れるのだろうが、それでもこの妖魔の死体の山はグロテスクさの塊と言えるだろう。
 蛇薙と名が付いた小振りの槍に付いた体液をふるい落としながら、神谷はそんな風にぼんやりと考えていた。
 どうやらこの芋虫の妖魔は先程羽化したばかりのようで、力も弱く屠るのに大して時間はかからなかった。数こそ多かったが、さほど問題ではなく、植え付けられた巨大な卵の塊を破壊して、妖魔の元も断ち切った。
 だが、神谷の表情は浮かなかった。卵があると言うことは植え付けたもの――すなわち、成虫がいると言うことだ。このままではまた卵をどこかに植え付けられてしまう。そうすれば被害が広がってしまう。
 神谷は蛇薙を右手に持ったまま、成虫を探そうとして、不意に歩を止めた。
 鋭い閃光が少し離れた所で放たれ、神谷は槍を持っていない左手で目を隠す。少しでも遅れていればしばらく視覚が失われていたところだった。
 だが、それでも手がかりとしては充分だ。神谷は通常の人では到達できないスピードで雑木林の中を駆け抜ける。
 すぐに雑木林を抜け、開かれた一角に出ると共に、神谷は息を潜める。
 成虫がいた。大人より巨大な体躯に、畳ほどの大きさの羽根。蝶に似たそれは殺気を漂わせながら、もう一つの小さな影を執拗に追いかけていた。
「……はっ!」
 裂帛の気合いと共に鋭い女の声が神谷の耳朶を打つ。その声にあわせて、二振りの刀が月の光を受け、光を放ちながら妖魔に向けて振るわれる。
 それはまるで優雅な舞姫の舞いのようだった。か細い体から放たれる斬激は鋭く、妖魔の反撃を全て弾き落としていく。
 だが、そんな激しさを持っていても、美しさは損ねない。それは振るう者の力量がなせるものなのだろうと神谷は助太刀するのも忘れて、ただただ見惚れていた。
 妖魔がふらつき、地面に落ちかけたのを見逃すことなく、女は妖魔に刹那の内に肉薄する。二振りの刀がそれぞれ淡く蒼と紅の色を放ちながら、容赦なく妖魔の体を切り刻む。
 妖魔の生命力は生半可なものではない。切り刻まれても瞬く間に傷を修復する力を持つものも多い。
 だが、女が放つ斬撃はそれにも増して苛烈だった。一つの傷が治るうちに、無数の傷を妖魔に刻みつけていく。
 決着は想像したよりも早く訪れた。不意に刀身を包み込む紅色が濃くなったと同時に、妖魔の体が真っ二つにぶった切られる。
 それがきっかけになったのだろう。妖魔はそれまでの抵抗とは裏腹にいとも簡単に事切れた。
 地面に叩き落とされた蝶に似た妖魔の遺骸を燃やしながら、女はふぅっと軽く息を吐いた。よく見るとまだ女と呼ぶにはまだ早い華奢な躰をした少女だった。あまりの華麗さと美しさを兼ね備えた戦闘に気が付かなかった。
 少女はふぅっと一つ息を大きく吐くと、刀の汚れを拭き取り、神谷のいた方向を一瞥する。そして妖魔が完全に燃え尽きたのを確認するとその場から忽然と姿を消した。
 後には様子を窺っていた神谷だけが残った。今まで雲隠れをしていた月が急に顔を出し、辺りを今までのことなど気にすることなく優しげに照らしていた。



 からりと晴れきって梅雨の気配など全く感じさせない初夏の太陽が蒼く広がっている空をゆっくりと闊歩している。屋上のコンクリートに叩き付けられる熱線は、じりりと肌を焼いている。
 給水塔の影に身を寄せて、神谷裕一郎は小さく息を吐いた。屋上は彼のお気に入りの場所なのだが、如何せん今日は太陽がきつく感じる。
 かといって、あの何も考えていないような同級生達の群がる教室に休み時間までいることはあまり心地の良いものではない。
 屋上に人影はない。元々立ち入りに指定された禁止の場所で、鍵もかかっている。そんな場所に神谷が侵入できたのは簡単なことだ。鍵をこっそり拝借して、合い鍵を作っておいたのだ。
 いわばここは神谷のパーソナルスペースと言える。校内1の不良と恐れられている神谷にとって、ここは学校で唯一の憩いの場だった。
 とは言っても厳密に言えば神谷は不良でも何でもない。成績は学内では上の方で、授業態度は真面目で良好。だが、入学してすぐにその当時、校内のヤンキーのボスに喧嘩を売られて、ボコボコにしてしまったことからそういう扱いを受けることになってしまったのだ。
 それが一介の高校生・神谷裕一郎としての姿だった。
 あらかじめ自販機で買ってきたアイスコーヒーを飲みながら、すぐ隣にある校庭で男子生徒達がサッカーをしているのを金網越しにぼんやりと眺める。
 不意にぎぃっと錆び付いた音を立てて、屋上と校舎を繋ぐ古びた扉がゆっくり開かれた。神谷は飲み干したコーヒーの缶を右手で握りつぶすと、扉の向こうからやってくる人物に目を細める。
「青木か……」
 神谷の前に姿を現したのは意外な人物だった。神谷を目の敵にしてくる校内のヤンキーでもなければ、生徒指導と称した器の小さな教師でもない。
「あ、いたいた」
 涼やかな声に笑みを浮かべて近づいてきたのは1人の少女だった。彼女の名前は青木麗。神谷と同じクラスの、いわばクラスメイトだ。
「何の用だ、青木」
 神谷は誰にでも分け隔て無く接する麗のことが少し苦手だった。容姿端麗で成績も良く品行方正、その人当たりの良さから男女問わず人気の高いクラスの中心と、日陰が似合う神谷が合うはずがなかった。
 言葉の端々にトゲを立てながら、神谷はすぐそばまでやってきた麗に内心戸惑いながら目を遣る。
「今日はお願いがあってきたんだ」
 急に麗の声のトーンが変わった。そして神谷の目を真っ直ぐ見据えながら、真剣な表情を浮かべる。
「私に力を貸して」
 口から放たれた言葉はそれだけだったが、神谷は瞬時に理解する。そして自らの置かれた状況に気がつく。
「それは、クラスメイトとしての俺に言った言葉じゃなくて、退魔士としての俺に言った言葉だな」
 神谷の言葉に麗は表情を変えずに、小さく、だがはっきりと頷いた。
「もちろん、ただとは言わない。お礼は相応にはするわ」
「断るって選択肢はないのか?」
「あなた次第ね」
 神谷は見上げているのにもかかわらず、いつものか細い姿とは裏腹に大きく見える少女の姿を一瞥して、思案顔になる。
 迷いはもちろんあった。クラスメイトとは言え、麗のことはよく知らない。信用するに値する人物ではないのだ、神谷にとっては。そう言う場合は断るのが常だが、何故か神谷の頭の中にその考えは浮かんでこなかった。
 麗の言葉の片隅には、焦りのようなものがあるように感じられた。何かは知らないが、重いものであることは容易に想像が付く。
「いいだろう」
 神谷は言い切った。麗は少し驚いたように神谷を見つめていたが、やがて
「よろしくお願いね」
 と右手をゆっくりと差し出してきた。それを軽く掴んで、神谷は軽く頷いた。



 その日の晩、神谷は麗にあらかじめ指定されていた場所にいた。上弦の月が西の空の低いところに降りつつある。もう後数時間すれば日付も変わるだろう。
「お待たせ」
 後から声を掛けられ、神谷は自身を呼び出した人物に視線を向ける。
 麗の格好は、至ってラフなものだった。スポーツ用のアンダーシャツに薄手のパーカー、腰まであるストレートな黒髪をゴムで縛り、動きやすいようにポニーテイルにまとめている。
「よう」
 神谷はぶっきらぼうに片手だけ挙げて、ジャージのポケットにしまった一枚の紙を握りしめる。
「遅くなってごめんね。それじゃあ行くよ」
 麗の先導に神谷はゆっくりとその後を付いていく。歩く度に背中にかかったポニーテイルがリズム良く揺れ動いている。
 待ち合わせの場所から古びた車道沿いを5分ほど歩いて、車道から離れる。道路脇にある小高い山の中にどんどん入り込んでいき、麗は何かを探すようにしきりにきょろきょろと辺りを窺い始める。
「あった……」
 しばらくして麗は山の中腹にある小さな石碑を見つけると、小さく息を吐く。どうやら目的のものを見つけたらしい。
「神谷君、これを壊してくれる?」
 麗はひびがあちこちに入り、ボロボロと言った体の石碑を指さす。後に控えていた神谷は少し訝しげな表情を浮かべながらも、蛇薙を手元に呼び寄せ、構えを取る。
 神谷は構えを取りながら、ボロボロの石碑が放つ何とも言えない雰囲気に顔をしかめた。一言で言えばあまり気分の良くないものといった印象で、出来れば近づきたくないが、そうも言ってられない。気合いを一つ入れ、蛇薙を上段から振るう。
 蛇の鳴き声を思わせる音を低く鳴らしながら独特のしなりと共に、蛇薙が石碑を簡単に粉砕する。
「下がって」
 麗の声に言われるまでもなく、神谷は粉砕したと同時に体を大きく交代させ、石碑の根本から噴出しだしたどす黒い霧を警戒しながら、もう一度構えなおす。
「なるほど、これは確かに1人じゃ荷が重いな」
 2,3メートルほどに濃縮していく黒い霧を忌々しげに睨み付け、神谷はぽつりと呟いた。やがて、霧は一つの大きな影へと変貌し、徐々にその姿が明らかになる。
 明らかに人のものではない発達した筋肉のついた巨大な体躯に、牛の頭。2メートルを優に超えた巨体は独特の威圧感を放っている。
「牛鬼……」
 麗が小さく呟いたのは、牛の頭に鬼の体躯を持つ有名な妖魔の名だった。
 だが、神谷はその程度では臆することはない。相手の力量を計り、戦えるなら戦うし、叶わないと思ったら逃げて、援軍を呼ぶ。それが退魔士の――いや、戦士としての基本的な戦いのスタンスだ。
「来たれ、桜華、美月」
 麗の厘と涼しげな声が聞こえると同時に、神谷はだっと地面を蹴った。
 まだ満足に体の動かない牛鬼に切迫し、蛇薙独特のしなりを持つ突きを低い姿勢からいくつも放つ。的確に急所を突いたつもりだったが、それはあっさり牛鬼の体に弾かれ、傷一つ与えることが出来なかった。
 不意に目の前に黒々とした木の幹のようなものが迫ってきて、神谷はその場をとっさに離れる。鎌鼬のような風圧に顔をしかめ、右腕で一撃を放ってきた牛鬼の挙動に神経をとがらせる。
「大丈夫?」
「ああ。……だが、一撃でも食らったらおしまいだな」
「そうだね」
 入れ違いに両手に小太刀を二振り持った麗が牛鬼に肉薄し、鮮やかな連撃を加える。一撃を加えたところで、小太刀がそれぞれぼんやりと蒼と紅の色を放ち始める。
「大したダメージは与えられないか、やっぱり」
 麗の与えた斬撃による傷は、あっという間に塞がり何ともなくなってしまう。麗は牛鬼の一撃をあらかじめ察知して、その場から飛び退き、神谷の近くまで戻ってくる。
「どうしよう。想像以上に堅いね」
「それにここは分が悪い」
 麗の言葉に賛同しながら、神谷は辺りに生えている草木に目をやる。小回りのきく小太刀ですら振りにくそうに見ていたのを見ると、蛇薙ならまだしも威力の高い大型の槍は使いづらい。
 戦うならなるべく障害物のない広めの場所の方が良い。麗もそう判断したのだろう、無言で頷いて
「あいつを山の頂上までおびき寄せるわ。そこなら木も生えてないし、戦いやすいはずよ」
 体が徐々に動き始めてきたのだろう。牛鬼の攻撃が徐々にではあるが回数が増えてくる。それを2人がかりでいなしながら、牛鬼を頂上までおびき寄せる。
「ウォーミングアップにはいささか骨が折れるわね。ようやくここまでおびき寄せたけど、これからどうするの」
 何とか当初の計画通り頂上まで追い詰めたが、本番はここからだ。今までの傾向を見ると、蛇薙での攻撃は効果がほとんど無く、麗の二振りの小太刀では攻撃力不足に感じる。
 とは言え、麗の実力は神谷に匹敵するものがある。キレのある動きに洗練された剣技の数々、牛鬼に対して臆することなく向かっていける精神力。
 神谷は心の中で感心しつつ、ポケットから取り出した一枚の紙を放り投げ、独り言のように呟いた。
「そういえば聴いたことがある。俺と同世代で二刀流の剣術を使う女がいるって話だ。お前のことだろう? "双剣の姫君"」
 紙が音もなく爆ぜると同時に、重厚な槍が地面に突き刺さる。それをつかみ取ると牛鬼に切っ先を向け、構えを取る。
 麗は音もなく神谷の隣に降り立つと、くすりとどこかいたずらっ子の様な笑みを浮かべて、さてどうかしらと答える。
「今はそれよりも、目の前にいる敵を倒すことよ。称号で敵は倒れないわ」
 真剣な表情に戻った麗が、先程とは比べものにならないスピードで牛鬼に迫りゆく。二振りの小太刀がそれぞれ色を放って煌めいたかと思うと、牛鬼の体の至る所から血しぶきが上がる。だが、やはり傷は浅く、大したダメージを与えることはできていないようだ。
 当然牛鬼も黙ってやられている訳ではない。麗の攻撃を受け止めながらも強烈な威力を誇るであろう拳打を狙いを済ませて放ち続ける。
「はっ」
 一発でも貰えばただでは済まない拳打を至近距離でかわしながら、麗は果敢に責め立てる。そして牛鬼が反撃してくるとわかれば、その場から素早く飛び退く。
 牛鬼の反撃が失敗に終わり、隙が出来たところを神谷が槍による強烈な突きを放つ。牛鬼が呻き声を上げ、大きく後に吹き飛ぶ。
「まだだ」
「ええ」
 2人は見るまでもなくわかっていた。牛鬼をこの程度では倒せないことには。だが、今の攻撃は確実にダメージを与えられているはずだ。
 後に吹き飛ばされた牛鬼がゆっくりと起き上がり、先程までよりひと段階早い速度で神谷に向かって迫ってくる。
「おっと」
 それを槍で受け止めず、その場から横に素早く避ける。
「青木!」
 麗は青白く光を放つ小太刀を牛鬼の目に放ったかと思うと、伸びきった牛鬼の右腕にもう一本の小太刀を両手で構え、大上段から鋭く振り下ろす。一瞬、小太刀が血のように紅い色を放ち、牛鬼の腕に深々と食い込む。
 手負いの獣のような絶叫を挙げながら、牛鬼が体勢を崩す。その隙を見逃さず、麗は素早く小太刀を回収すると、その場から離れ体勢を立て直す。
 もちろん神谷もその間何もしていなかったわけではない。槍に込められた霊力を解放し、体に力を巡らせ、渾身の突きを放つ。
「やったか?」
 深々と貫いた感触はあった。だが、牛鬼は平然と立ち上がり、憤怒の形相で2人を交互に見返す。
「効いていない訳じゃない。このまま攻めるわよ」
 麗は小太刀を構えて、再び肉薄すると、容赦ない斬撃を牛鬼に浴びせかける。恐らくは今のように麗が手数で責め立て、神谷が強烈な一撃を加えると戦法で倒せると踏んだのだろう。だが、この手の妖魔の体力は底なしの沼と言ってもいい。相手の体力が尽きる前にこちらの限界が来てしまうと、神谷は今までの経験から考えた。
 ならば取る手は一つ。神谷は腰を低くし、槍を構えたまま全身にありったけの力を込める。この槍――神魂の槍には先程神谷が使ったように槍に込められた霊力を使用することの出来る性質とはもう一つ異なる力がある。それは使用者の生命力を用いて、爆発的な一撃を放つこと。
 放命衝と呼ばれるこの技には大きな問題があった。一つは生命力を加えることからリスクが大きいこと。そして発動するまでに時間がかかることだった。
 だが、やるしかない。麗の攻撃が苛烈な今なら……、そう思った刹那だった。神谷の動きに気がついたのだろう。牛鬼が麗の攻撃を受け止めながらも、切迫してくる。
 力を込めるのに意識を集中させていたせいで、反応が一瞬遅れた。それが命取りだった。牛鬼の大木のような右腕が神谷の腹部を打ち据える。
 まるで大型トラックが衝突したかのような衝撃に、神谷は口の端から血を迸らせながら吹き飛ぶ。
「神谷君!」
 麗の甲高い悲鳴が山頂に響き渡る。牛鬼が留めを刺そうとするところを麗が間に入り、鋭い斬撃を放つ。
「この…………っ!」
 目の端に少し涙を浮かべたまま、麗は鬼気迫る表情で牛鬼との距離を一気に縮め、紅に輝きを放つ小太刀を下から振り上げる。どす黒い鮮血が大輪の花を咲かせ、牛鬼の右腕がぽとりと落ちる。
 絶叫をあげ、のたうち回る牛鬼を気にすることなく、小太刀を収めた麗は、意識を失いつつあった神谷を抱え、山頂から急な斜面へと滑り降りる。その様子をぼんやり眺めながら神谷の意識は急激に暗闇の中へと吸い込まれていった。



 神谷裕一郎は退魔士として名を馳せた両親の元に生まれた。両親――特に父親はかなりの腕だったらしく、妖魔を倒すことにかけてはピカ一だった。だが、そんな両親でもあっさりとある妖魔にやられてしまった。
 それが神谷が10歳の頃だった。その頃には既に両親の指導の下、退魔士としての基礎を習得し、修行に明け暮れていた神谷は両親の死に涙一つ流すこともなかった。元々、両親は神谷に死ぬのは弱いからだと説いていた。だが、それが傲慢さを含むもので、自分たちは死ぬはずがないという驕りに近いでもあった。
 両親の死後、海堂京介の元に弟子入りした神谷はそこでめきめきと実力を付け、実戦も数多くこなすようになった。
 だが、戦闘を繰り返す度、どこか物足りなさを感じ始めていた。そしてそれを打ち消すかのように修行に打ち込んだ。
 当然のように学校でも大して人付き合いもせず、学校の成績だけそれなりの結果を収めることを意識していた。
 神谷裕一郎には戦うことしかできない。愚かだった両親と同じ道を歩みつつある自分の身を心のどこかであざ笑いながら、神谷は胸の奥で痛みを感じ始めていた。
 嫌に瞼が重く感じられる。腹にはずしりと鉛が乗っているように思われ、神谷は顔をしかめた。何とか瞼を開くと、薄暗い部屋の明かり越しに少しやつれた少女の姿が見えた。
「ぐっ…………」
「まだ動いちゃ、ダメよ」
 起き上がろうとした神谷を制止した麗の声で、神谷は自分が牛鬼の攻撃をまともに食らったことを思い出した。ずきりと腹部に鈍い痛みが走る。
「肋骨は5本折れてる。後は重度の打撲。内臓は大丈夫だったみたいだけど、ダメージは大きいよ」
 麗が申し訳なさそうな何とも言えない表情を浮かべながら、負傷の度合いを知らせてくる。かなりの重症だ。一応、術による治療はされているだろうが、2,3日は動けまい。
 神谷は顔だけ動かしながら、辺りの様子を探る。使い慣れた無機質な学習机に、トレーニングの用具や洋服をしまうスペース。どうやら自分の部屋まで運ばれていたらしい。神谷は小さく息を吐きながら、項垂れる麗の姿をぼんやりと見つめる。
「ごめんね、私がヘマしちゃったせいで、神谷君が傷ついて……」
「気にするな、俺の実力が足りなかっただけだ」
 わびるような声音がして麗が近くに寄ってくる。神谷は顔を向けると、彼女は目から涙をこぼしながらこちらを見つめてきていた。
「でも、それも当然かな。私信頼してくれる訳もないし、いきなり信頼しろっていうのは虫が良すぎるよね」
「青木……」
 実際に麗の言う通りだった。麗の実力は信用に値するものだった。だが、麗個人は信頼に値する人物かと言われれば、神谷の中ではノーだった。だからこそ1人で放命衝という大技を使おうとした。それが失敗してこの様だ。
「信頼は人と人が知り合い、お互いについて理解を深める中で生まれる。だから私は、神谷君に自分のことを知って貰って信頼に足る人物であるようにわかって貰いたい」
 麗はそう述べると目の端にあった涙をすらりと伸びた人差し指で拭い、神谷の目をじっと見つめてくる。
 そしてゆっくりと語り始めた。今回の依頼の理由。そしてそれにまつわる麗自身を取り巻く環境。そして神谷なんか目じゃないほど凄惨に歩んできた今までの人生。だが、麗は笑みを浮かべていた。受け入れてなおかつ戦っていた。か細い体を奮い立たせ、二つの刀を両手に持ち、襲いかかる厳しい運命というけだものに懸命に抗っている。
 それに比べて、自分は何なのだろうか。目的もなく、ただ強くなろうとだけしていた。それは何の意味があるのだろう。そして目的をもって戦い続けている麗が血を幾重に浴びているのに関わらず強く美しくあろうとしていることが、本当に眩しく感じられた。
 最後に彼女はこう語った。
「今は信頼してもらえないと思う。でも私は神谷君のことを信じてるから」
「わかった。そこまで言うならお前を俺も信じる。だから今度こそ奴を倒すぞ」
 麗は神谷の言葉に少し驚いた表情を浮かべた後、少し照れながらも嬉しそうに笑みを浮かべて、そっと神谷の手を握ってきた。
「うん」
「青木」
「何?」
「しばらく、薬が効いて寝られるようになるまで、何か気を紛らわすために話をしててくれないか」
 神谷は他の人が聴けばどうでもいいと思うような麗のとりとめのない話を聞きながら、少しずつ睡魔に引き込まれていくような感覚に体全体を預ける。今まで知らなかった麗の一面を微笑ましく思いながら、神谷はゆっくりと微睡みの淵へと落ちていった。



 神谷が目覚めたのはそれから12時間後、傷を負って丸一日が過ぎようとしていた頃だった。辺りはすっかり真っ暗になっていた。起き上がろうとして腹に激痛が走り、神谷は嘆息する。
 肋骨は術による治療で引っ付きつつあるし、打撲自体も急速なスピードで治癒がなされている。その反面、急激な体の治癒は自然の理に反し、激しい苦痛を伴う。命に関わりかねない大怪我だっただけにそれは尚更だ。
 なるべく患部を刺激しないように意識しながら体を起き上がらせる。麗の姿がすぐ近くに見えた。ベッドの端にもたれかかりながら、目を閉じている様に、今更ながら女の子だということに気がつく。さらさらと流れるような黒髪は美しい光沢を放っており、寝息を立てるその顔は穏やかでかわいらしさすら感じさせる。クラスの男子共が色々噂をしたり、ちょっかいをかけたりする気持ちがわかる。
 きっと付きっきりでみていてくれたのだろう。疲れて眠ってしまったに違いない。起こさないように注意しながら立ち上がり、一枚の紙を机から取り出し、静かに口上を述べる。
「来たれ、神魂の槍」
 ずしりと重い槍を全身で受け止め、神谷は槍から霊力を受け取る。それで少しは楽に動けるようになるはずだ。
「どこに行くつもり?」
 いつの間にか麗が槍の端っこに手をやり、神谷を真剣な表情で見つめていた。
「決まってるだろう。牛鬼を倒しに行くんだ」
「1人で?」
 麗は険しさを表情に加えながら訊ねる。神谷は首を横に振り、麗の目をしっかりと見据える。
「このまま奴を野放しにするわけにはいかない。いつ周りに被害が出てもおかしくないからな」
「勝算はあるの? 神谷君は怪我人だよ。策無しに行くのは死ににいきますって言ってるようなもの」
「大丈夫だ。この神魂の槍で放命衝をぶっ放す。ただ、この技は発動までに時間がかかる上に、俺の今の状態じゃ一発お見舞いするのが限界だ。だから……」
「わかった。絶対に神谷君の元には行かせない」
 麗は納得したように頷くと、扉を開き、外で待っていた人物に声を掛ける。
「転座位お願いして良い?」
「わかったで」
「音無、お前……」
 そこにいたのは海堂の元で(正しく言えば海堂の妻の元でだが)弟子入りしている音無響一だった。関西弁を喋り、どこかふざけた雰囲気を持っちゃ明るい性格である彼と神谷はあまり関わりを持とうとしなかった。だが、何かにつけて神谷に絡んできて、今まではうんざりしていた。
「話は全部聞いてるで。あそこらへんやったら一発で連れて行けるわ」
 うすうす感づいてはいたが、やはりあらかじめ神谷を借りることに麗は海堂に許可を取っていたらしい。
「お願いね、音無君」
 麗の言葉に音無はふざけながらも真剣な表情で頷く。そして複雑な呪文を唱え始め、術式を展開する。
 急に辺りの景色がぶれたかと思うと、すぐに辺りの景色が一気に変わる。海堂の屋敷から山頂に転移は無事に成功した。
「無事成功したみたいだね」
「そうだな」
「あ、神やん。伝言や」
 額の汗を拭って、音無は神谷に視線を移す。神谷もそれに気がつき、何かを告げようとする音無の言葉を待つ。
「海堂のおっちゃんから伝言。この戦いで何か掴め、掴んで生きて帰ってこい。やって」
「ああ」
「それじゃあ、俺は先に戻ってるからなー。終わったら連絡頂戴よー」
 伝言を伝え終わった音無は音もなく消えると、その場には麗と神谷の2人だけが残される。
「来たね」
「ああ」
「ねえ、神谷君」
 牛鬼の気配を感じながら、麗は二本の小太刀をすらりと抜き放つ。顔だけ神谷の方に向け、ゆっくり口を開く。
「私、頑張るから」
「ああ」
 笑みを浮かべて、麗は牛鬼に向かって駆けだしていく。神谷は長く伸びた髪の毛が揺れる様を眺めながら、神魂の槍を両手に持つ。そして体全体に再び力を込める。
 腹部に痛みが走るが、気にすることなく神谷は体全体を低く沈め、より一層の力を槍に注ぎ込んだ。
「行くわよ」
 麗はこちらにやってきた牛鬼を真正面から迎撃する。麗が切断した右腕は再生したか引っ付いたかして元の場所に存在していた。麗は眉をひそめ、そのまま牛鬼の目の前に飛び込む。
 神谷に攻撃を向けさせないために麗が取った作戦は至近距離にまとわりつくことだった。鋭い動きで翻弄し、注意をこちらに向ける。一歩間違えれば大怪我、下手をすれば死ぬかも知れない中で、麗に下がるという選択は頭のどこにもなかった。
 牛鬼の拳打を敢えて際どいところでかわしてゆき、小太刀で素早く斬りつけていく。斬りつける小太刀の一つが紅蓮の光を放ったかと思うと、牛鬼の腕を深々と切り刻んだ。
「桜華、我が血を吸い、その輝きを増せ」
 そう呟きながら、麗は紅に輝く小太刀をもう一度振るう。
 麗の持つ小太刀はそれぞれ美月、桜華という霊力を秘めた業物だった。どちらも異なる能力を持っており、その中で桜華は切れ味に特化したものを持っていた。奇しくもそれは神魂の槍と似たように、使用者の力を吸い、武器の能力を高めるというもの。放命衝のような大技こそ無いが、桜華には力を吸った分だけ、切れ味を増すという特性があった。
 牛鬼の腕を切り裂くことが出来たのもこの桜華の特性を生かしたからだった。切断能力を高め、容赦なく切り刻むことで牛鬼を追い詰めよう。そう考えたのだった。
 麗が桜華の能力を使用しているときに、神谷もまた神魂の槍に力を――精気を流し込んでいた。放命衝は注ぎ込んだ分だけ、威力を増す。牛鬼を一撃で屠るためにはそれなりの精気が必要だった。
 だが神谷は怪我人。通常の状態なら何の問題もなかったが、如何せん怪我が酷すぎた。精気を搾り取ろうとする度に激痛が走り、立つことで精一杯となる。だが、それでも神谷は精気を送り続ける。槍の力はどんどんと増していき、充分な力が溜まりそうになっていた。
 一方麗も牛鬼の動きを完全に牽制しきっていた。鋭い桜華で手傷を負わせ、身動きを封じていると、神谷のことがふと頭をよぎった。放命衝という技が頭の中をよぎる。それが命を放つということならば……。気がつければ麗は、立ち上がろうとした牛鬼の左腕に桜華を、右足に美月を投げつけ、一気にその場から離れた。
 そして青ざめた顔で槍に力を送り込もうとする神谷の手を掴み、自身の力を注ぎ込む。
「行くぞ、青木」
「ええ」
 ふらりと立ちくらんだ体を支え、麗は神谷と共に槍を構えて駆けだした。美月と桜華をようやく抜き取った牛鬼に槍の穂先を叩き付け、槍に込められた力を解放する。
 溢れ出る力の奔流を体で感じながら、それをまともに受け止めた牛鬼の様子を神谷は裂帛の気合いで槍に力を込める。
 牛鬼の腹に神魂の槍が突き刺さったかと思うと牛鬼が断末魔の声を上げ、体が粉々に崩れ去っていく。
 完全に牛鬼が消滅すると同時に、神魂の槍から放出されていた力も収まりをみせる。完全にほとぼりが冷めたところで神谷は力なくその場に倒れた。意識こそあるものの、一歩も動けず、神魂の槍が音もなく傍に突き刺さる。
「大丈夫?」
 麗が慌てて体を支えてくる。愛刀を放り出し、そのまま神谷を近くに生えている木の根元まで運んで、躰を預けさせる。
「やった……ぜ?」
「うん…………」
 先程までの戦いの後は山頂に大きな傷痕を残していた。放命衝の余波があちこちに放たれ、地面を抉り、大木はなぎ倒されている。
 麗も神経をとがらせ戦い続けていた反動で、糸が切れたように神谷の隣に座り込み、はぁっと大きく一つ息を吐く。
「青木……」
「何?」
 隣に座り込んだ麗の横顔をじっと眺めながら、神谷はぽつりと声を発する。疲れの色を見せながらもどこか嬉しげな笑みを浮かべた麗は首だけ動かして顔を向ける。
「疲れた」
「そうだね」
 意識を保っていられなくなったのだろう。神谷はゆっくりと瞳を閉じると、そのまますやすやと寝息を立て始める。神谷の寝顔は普段、学校でヤンキーだ不良だと言われている姿とは全く異なった穏やかな表情そのものだった。
「お疲れ様……。そしてありがとう」
 きっと学校で見せている姿は本当の神谷とは異なるのだろう、そんなことを考えながら麗はしばらく神谷の寝顔をただぼんやりと眺めていた。



 5日ぶりの学校はいつもと変わらぬ日常を続けていた。牛鬼との戦闘で重症を負った上に、放命衝を使ってただで済むはずがなかった。術者の治療に更にお世話になり、なおかつ3日間の入院生活を経て、ようやく動けるようになったのがつい昨日だった。
 医者には安静にしているように言われていたが、流石に休んで手持ちぶさたなのもつまらないので、神谷はいつも通り学校で一日を過ごすことにした。
 学校には急性胃腸炎で短期の入院をしたと嘘をついた。なので麗に元気になって良かったねとクラスメイトとしての顔で言われた以外特に変わったこともなく、ごく一部が他校のヤンキーとサシで戦ってきたのだなどとあらぬ噂を立てるくらいで事は収束していた。。
 学校に来たのは良いが、特に何もすることはない。ノートは後日まとめて麗がコピーしてくれるとの話だし、自学自習さえきっちりしていれば授業の遅れなどすぐに取り返せるものだ。
 ということで神谷はいつものように1人屋上でぼんやりと空を眺めることにしていた。
「暇そうにしているね。教室にいるの暇?」
「あそこにずっといてろ。女子共のきゃぴきゃぴした黄色い声を聞いてたら脳みそがとけておかしくなりかねないだろ」
 後からかかってきた声に振り向くことなく神谷は質問に答える。
「そうかな。意外と話してみると楽しいよ?」
「残念ながら、ああいうのは俺には合わん」
 神谷の憮然とした声に、それもそうかもねとクスリと笑い声を上げながら、声の主である麗はゆっくりと神谷に近づく。
「それはそうと何の用だ?」
 あの時と奇しくも同じような状況に神谷は少し息を飲む。だが、麗は普通の女子高生の表情で、神谷にそっと右手に掴んだものを差し出す。
「何だこれは」
「みてわからない。お礼よ」
 それはどこからどう見ても何の変哲もないただのお弁当だった。麗にしてはファンシーで子供っぽいデザインの巾着袋は、きっと麗の弟のものなのだろう。
「どうせ、購買でこの後何か買いに行くんでしょ? それより現役女子高生の手作り弁当の方がよっぽどいいよね? しかも今ならサービスしてあげてもいいよ?」
 口元にからかうような笑みを浮かべながら、麗はナプキンを広げ、弁当を一つずつ開帳していく。
「仕方ない奴だ。そこまでいうなら遠慮無く頂くことにする」
「そうこなくっちゃ」
 麗はどこか日だまりに似た笑みを浮かべながら、神谷に微笑みかけてくるのだった。そんな麗の顔を見つめて、これから何かが変わっていくかも知れない。そんな予感が春から夏に移りゆく風の中に混じって流れてきているように感じた。

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