俺は太陽が嫌いだった。
 その光はあまりに明るく、闇から生まれた俺にはその輝きはまぶしすぎた。
 俺は月が好きだった。
 闇に浮かび、俺のような闇の中でしか生きられない者にも優しく微笑んでくれる。その輝きはどこか高貴さを漂わせているようにも思える。
 だから、俺は太陽以上に新月が嫌いだった。
 漆黒の闇はただ虚しく、こころにぽっかりと穴を空けている。月にすら見捨てられたこの闇には絶望しか残っていない。
 闇は光に変われない。



新月の輝き



「お前、人ならざる者だな」
 薄暗裏通りを歩いていた俺を、鋭い女の声が呼び止める。
 びくりと肩がゆれる。俺は歩を止め、声の主を捜す。
「何の用だ?」
 俺は声の主である占い師の女を睨み付ける。女は意に介したような様子も見せず
「そう邪険になるな。お前を特別に占ってやろうと思ってな」
 水晶玉に目をやる。あたりを警戒しながら、俺は眉をひそめ女に近づく。
 じっと相手の目を見て「おちろ」と念じる。
「ほう、面白い術を使うな。催眠術の一種か?」
 女は目を細め、じっと俺を見つめる。術は通じない、女の目がそう語っていた。俺は自分の能力が一瞬でさけられたことを悟った。
 この女はただ者ではない、俺の本能がそう告げていた。サイボーグに本能なんてものがあると思えないが。
「で、何を占ってくれるんだ?」
 どかりと小さな椅子に座る。女は険しい表情をし、おもむろに口を開いた。
「今お前が成し遂げようとしていること、それはお前を破滅に導く」
 みしりと体が音を立てる。つぅっと嫌な感じが背中を伝う。
 わかっている。そんなことは。だが立ち止まるつもりはない。続く道が地獄に続いていようが、破滅に向かっていようが、それでも構わない。目的のためには悪魔にだって魂を売ってやる。いや、もう売っている。
「今のお前にはわからんな」
 女黙ったままの俺に構わず話を続ける。
「道は一つではない。そして行き着く果てにだけ価値がある訳じゃない。今私が言えるのはこれだけだ」
 女は話し終えると静かに目を閉じる。俺はふんっと女を一瞥して立ち上がる。
「二度と会うことはないだろうからな。あんたの名前だけは聞いといてやる」
「埼川珠子。ただの占い師だ」
「上川辰也だ」
 俺は自分の名を名乗る。珠子と名乗った女は厳しい視線でこちらを見据えていた。
 その視線からそらすように目を離した俺の視界から忽然と珠子の姿が消える。
「何だってんだよ……」
 残った水晶玉が月明かりを受けて、淡く輝いていた。



 三日月の淡い光が俺をやさしく包み込む。空を見上げる俺は今、どんな表情をしているんだろう。似合わないセンチな感傷に浸っていた俺は、それを断ち切るように首を横にブルブルと振る。
 気を紛らわすように、あたりを見回す。ふと誰かの黒い影が目に留まる。
「あれは、女?」
 俺は視線を影の方に向ける。女と表現するにはあまりに小柄で線の細い少女が、三日月の方を見上げていた。
 何故か強烈な既視感に見舞われた俺は、その少女に近づいた。
「おい、真夜中にこんな場所にいたら危ないぞ」
 俺の声に気づいたのか、少女がこちらに視線を向ける。
「何してるんだ?」
「そうですね。でも夜空を見上げるのが好きなんです」
 続けた俺の言葉に少女がゆっくりと口を開く。月明かりに幼げな顔立ちが美しくも儚げに照らされる。
 どきり、胸に電撃が走り抜ける。
「奇遇だな、俺もだ」
 俺は少女の顔を見ながら、呟く。少女はくすりと微笑んでうーんと伸びをする。
「月の光って優しいですよね」
「そうだな」
「そう言えばまだあなたの名前を聞いてませんでしたね」
 少女はもう一度くすりと微笑む。
「上川辰也」
「紺野美空です」
 俺はにっこりと笑う美空に目を奪われていた。
「それじゃあ、私は帰りますね」
 球に掛けられた声。放心していた俺の心を現実に引き戻す。
「あ、ああ……」
「上川さん」
 美空がこちらを見据えてくる。その仕草の一つ一つが可愛らしく見える。
「何だ?」
「その、た、辰也って呼んでいいですか?」
「ああ」
 にこりと笑うと美空は足早に立ち去っていった。後には俺と沈みつつある三日月が残った。



「人間ってちっぽけな存在だよね、あの月も小さく見えるけど本当は遠くにあるから小さく見えるだけなんだよね」
 惚けたような表情で美空が呟く。俺は隣に座って黙って静かに頷く。
「何で私たちはこの世界に生まれてきたのかな? でもきっと意味があると思うんだ……」
 ずきりと傷を抉られたような痛みが胸を走る。だけど俺はそれを無視して、美空の横顔を見つめる。
 月明かりの元だけでの関係。二人で月を望む、ただそれだけ。そんな満月の夜。
「ねえ、辰也……」
 美空が甘く耳元で囁く。激しく心臓が脈打つ。美空と出会って十日あまり、俺の中で美空の存在は確実に大きくなっていた。
 だが俺はCCRに――あの大神の犬たちに追われている身。それに目的もある。
 俺の心は風になびく旗のように揺れていた。
「……私のこと、好き?」
 あたりに静寂、風が空気を切る音だけが響く。その無音が心地よい。瞳と瞳を合わせて、見つめ合う。
 無言のまま、俺は目を閉じる。そして、顔を美空に近づけ、潤んだ唇に口づけする。
 目は閉じたままなのでわからないが、きっと驚いたような表情をしているのだろう。
 満月の月は俺達を優しく包みこんでいた。
 目的はある、それでも俺という存在に欠かせないほど美空は俺の中で大きくなっていたのだ。
 ゆっくりとお互いの唇が離れる。美空の荒い息づかい、それが俺を激しくそそる。
「ずっと側にいてね……」
 体をすり寄せ、呟く美空。肯定の代わりに、そっとぎゅっと抱きしめる。
 いつ追っ手が来るかもわからない。それでもひとときの夢を見ていたかった。自分という存在を美空に重ねるこの一時を。



「ぐ、クソが……CCRの犬共が」
 新月の暗闇が覆う夜。俺は8つめのルナストーンを手に入れるため、とある研究所へ侵入した。
 その結果がこの様だ。ルナストーンは手に入れられず、CCRには手負いの傷を負わされた。
――今お前が成し遂げようとしていること、それはお前を破滅に導く。
 いつか出会った占い師の言葉が脳内でリフレインする。
 意味もなく自嘲気味に顔を歪める。何が何だか解らなくなりつつあった。
 人間になる意味も、俺がこの世に存在する意味も、何もかも混沌の渦に巻き込まれていった。
「今日も、ここに来ちまったな……」
 美空のいない漆黒の公園。外灯のランプの無機質な光は月の光とは異なり、冷たさしか感じない。
「た、辰也!」
 背後から声がする。若い女の声、美空の声だった。
 駆け寄る足音が聞こえる。美空の気配がすぐ側までやってくる。だが、その足音も気配も途中で止まってしまう。
「そ、その傷……」
 体のあちこちに刻まれた無数の刀傷、銃創。見ている方が痛々しくなるほどの傷を俺は負っていた。
「だ、誰がこんな酷いことを……」
 悲しみとも怒りともとれる声を上げる美空。その瞳は涙で濡れていた。
「…………美空、ここでお別れだ」
 美空を見据えて、口を開く俺。絶句し、涙に濡れたその双眸を見開く美空。
 二人の間に悲しい風が流れる。
「でも、ずっと側にいてくれるって……」
 しかし、美空の声は最後まで紡がれなかった。
 刹那の銃声。そして頭に当てられた冷たい感触。
「見つけたわよ、上川辰也」
 死神の声が夜の公園に響く。
「辰也……」
 美空の息を呑む音がやたらとはっきり聞こえる。今、美空はどんな顔をしているのだろう。
「どうして辰也を……」
「サイボーグだからよ」
 冷たい死神の声。そこには氷の如く暖かさの欠片もなく、ただ美空に突き刺さる。
「悪いけど、こっちも仕事だからね」
 死神はふうっとため息をつく。だがそこには一瞬の隙さえありはしない。
「どうせ死ぬんだから、最後は彼女の顔くらい見ても構わないわよ」
 つまらなさそうに死神は呟く。美空は顔を伏せて泣いていた。
「美空……」
「辰也、何?」
「愛してる……」
 ぐしゃぐしゃにゆがんだ美空の顔、その双眸を真剣に見つめる。
「もういい」
「あら? もういいんだ」
 少し驚いたような顔をして死神が呟く。さらりと銀色の髪が揺れる。
 死神が美空から視線を外す。刹那、一陣の風が吹き抜けた。
 伝わる衝撃、離れる冷たい感触。そして、死神の驚いた表情。
「しまっ……」
 鋭い手刀を死神の首元に振るう。本当なら殺すところだが、美空の前ではそれはできない。
「た、辰也」
 美空を抱きしめ、その場から離れる。暗い夜の闇に紛れて、俺達は駆けだした。



 夜の帳に浮かぶ新月。夜の訪れを告げる。
 淡い月の光を受けて俺達は肩を寄せ合う。
「すまない。俺のためにお前を巻き込んでしまって」
「……辰也。今も人間になりたい?」
 心と同様に澄んだ美空の瞳がこちらを見つめてくる。昔だったら即答できた質問を受けて、声を詰まらせる。
「わからないでもないんだ。自分が作られた存在だって知ったら、怖い。でも、それでも」
 真剣に見つめてくる。その瞳には強さがあった。そしてそれが少し羨ましかった。
「生まれてきた意味なんて一生探し続けないといけないんだよ。それに一生懸命、生きていたらそれでいいんだよ」
 俺は溶かされていくような気分に見舞われた。ルナストーンを一つ、また一つ集めていく度に感じていた虚無感。
 それが今、淡い粉雪のようにゆっくりと溶けていく。肩の辺りが軽くなった、そんな気がした。
「もう一度、聞くよ。人間になりたい?」
 美空の問い。答えはもう決まっていた。
「俺は……美空と一緒にいれるなら、人にならなくても構わない」
 美空の綺麗な瞳を見つめ、厳かに呟く俺。変わったなと思う。だが、その変化は決して嫌なものじゃない。
 美空は満足そうに微笑むと俺の胸に飛び込んできた。ぎゅっと愛おしさを込めて強く抱きしめる。
「これからはずっと一緒だよ」
「ああ」
 追っ手がまた来るかもしれない。辛いこと、苦しいことがあるかもしれない。それでも俺は美空と生きていく。そう心に、薄い線のような月に誓った。
 沈みかけの月が二人を祝福するように少し揺れた。そんな気がした。

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