No.2 異界からの旅人



「いててて…………」
 気がつくとそこは深い緑に覆われた深遠な森だった。どこからともなく鳥のささやかな囀りが聞こえ、土の匂いが心地よく感じる。
 和弥は地にしっかりと根を張る大樹の足下に倒れていた。痛む節々に顔をしかめつつ、和弥は体を起こし服に付いた汚れを手で払い落とす。
「さてここはどこなんだろう」
 半ば呆然と呟いた和弥の言葉に反応する者は誰もいない。どうやらマサキヨとも離ればなれになってしまったらしい。どうしようか、途方に暮れる和弥は手持ちぶさたになり、ポケットの中をゴソゴソとまさぐる。
 出てきたのは携帯電話と携帯音楽プレーヤー、そして薄っぺらい財布くらいだ。
 とりあえず携帯電話を開いてみる。いつもの待ち受け画面に写る時計は動いているようだが、日付は未表示となっている。電波こそ圏外だが、それ以外のカメラや電卓と言った機能は普通に使えるようだ。
 携帯音楽プレーヤーも使ってみるが、日付以外は特に変化はなく、普通に使えるようだった。
「どうしよう」
 幸い時間はまだ正午を過ぎておらず、とりあえず和弥は動くことにした。
「しっかし大きい森だな」
 道なき道を彷徨い歩き続ける。時に足に木の根が引っかかり転けそうになったりしながらも、とにかく前に進むことだけを和弥は考えひたすら邁進していった。
 やがて日も傾き、和弥の体に疲れが見え始める。最後に食事をしたのはいつだっただろうか、そんなことが頭をよぎる。思い出せる範囲では宿屋で目覚めたときに簡素な食事を食べたくらいしか思いつかない。
「やばい、ふらふらしてきた」
 急激に体を回転させたときよりも激しいふらふら感が和弥の身を苛む。立っていられなくなった和弥はそのまま泥の像が形をなくすようにその場に崩れ落ちる。
 ここで死ぬのかな、薄れゆく意識の中で和弥は自分が死ぬかも知れないという考えがよぎる中、和弥の意識はそのまま微睡みの淵へと吸い込まれていった。



 ちゅんちゅんと小鳥の小気味のいい鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。まぶたの裏が明るく焼けるように見える。どうやら太陽のやさしい光が入り込んできているらしい。
「う……、ここは……」
 空腹による鈍い腹痛を感じながらもベッドから上半身だけ起こし、辺りをじっくりと見回す。
 最初に倒れていた場所とは違うが、微かに森独特の臭いがする。ここはおそらく先程の森からそんなに遠くないところにあるようだ。空き部屋か何かだろうかこの部屋に生活感はあまりしないが、部屋が綺麗に整頓されているところを見ると客間として使われているのかも知れない。
「お、目が醒めたみたいだな」
 和弥が目覚めたのを見計らったかのように扉が開かれ、小柄だが快活そうな少年が部屋に入ってくる。見た感じ小学生か中学生になりたてくらいの年齢だろう。まだ子供としての色が濃いように感じた。
「えっと、ここは?」
「アンタは迷いの森で倒れてたんだよ。キノコ狩りしてたら人が倒れてるっていうかレミスじいさんところに運んだんだよ」
 あれは大変だったぜーと肩をすくめる少年に和弥は現状の把握のために情報収集を行うことにする。
「まずは助けてくれたみたいでありがとう」
「良いって事よ。困ったときはお互い様だってじいさんも言ってるし」
 少年の快活な笑みに和弥は暖かな気持ちになる。自分はまだ運が良いらしい。そう心の底から思う。
「そういえばアンタの名前は? 俺はカッツァっていうんだけど」
「塚本和弥」
「つか……言いにくいな」
「カズでいいよ」
 日本式の名前の発音は中々難しいらしい。少年――カッツァがしどろもどろになる様を見てここではカズで通すことにしようと和弥は決める。
「それじゃあ、レミスじいさん呼んでくるな。ついでに食事ももってきてやるよ」
 もうちょっと話を聞こうと思ったが、カッツァはあっさりと会話を打ち切り、部屋の外へと飛び出していく。
「おや、気分はどうじゃ? 大丈夫そうならここに食事を置いておくから食べると良い」
 程なくして部屋に腰の曲がった小柄な老人が、やわらかなパンと香ばしい香りのするスープを持って入ってくる。そして和弥の隣にそれを置き、近くに置いてあったイスに座りながら和弥の具合を問う。
「ありがとうございます。大丈夫です。えっと……」
「レミスじゃ。そなたの名は?」
「和弥と申します。助けてもらって改めてお礼を言います。ありがとうございます」
 レミス老人に和弥はまず深々と頭を下げる。レミス老人は髭の生えたアゴをさすりながらいいんじゃいいんじゃと応える。
「お腹も空いているだろう。暖かい内にそれを食べなされ。話は食べながらでいいじゃろう」
「ではお言葉に甘えて」
 それから和弥はここまで起きた出来事を簡単にレミス老人に説明した。和弥が恐らく異界の住民であることにレミス老人は少し驚きの表情を浮かべたが、すぐに元の柔和な表情に戻り和弥の話の続きを静かに聞き入る。
「ふむ」
 一通り話し終わって、レミス老人はアゴの髭に手をあて思案顔になる。
「どうしたんだよ、じいさん」
 途中から話を横で興味深げに聞いていたカッツァは不意に黙り込むレミスが黙り込んだことに首をかしげる。
「今までの話を聞くと、この世界にいわば獰猛な猛獣が数多く放たれたような状態になったようだ。ベリアスとやらが何者かはわからぬが、恐らく和弥がいたのは天空都市・セミラミスだろう」
「セミラミスってあのセミラミスか!」
 カッツァが突然大きな声を上げて、和弥はびくっと体を振るわせる。
「そんなにあそこ……セミラミスは有名なのか?」
「太古の昔から空に浮かぶ城。ドラゴンを扱ってすら近づけないあの天空都市は天に選ばれた者だけが行けるっていう伝説の都市なんだよ!」
 カッツァが興奮したように熱弁を振るう。ここの世界の住人にとって理想郷や桃源郷に近い性質を持つものなのだろう。
「ふむ、不確定要素が多すぎる……。今色々と考えても仕方あるまい。とにかく無事で良かったですな。ゆっくり食べて、もう少し休まれるがよいじゃろう」
 レミス老人はそう言って話を打ち切ると、ゆっくりとした足取りで部屋を出て自室の方に戻っていく。
「しっかしアンタ変わってるよなー」
「そうか?」
「ここいらじゃ、黒髪で黒い目をした人間はいないんだよ。それに雰囲気もそこいらの人間と全然違うし」
 まじまじと和弥の顔を近くでじぃっと見つめ、やがて睨めっこに負けたかのようにふっと表情を緩めていきなり笑い出す。
「とりあえずさぁ、今日はそれ食ったらしっかり休めよー。明日はこの辺り色々紹介するし」
「あ、ああ、ありがとう」
 それじゃあねっとカッツァは少年らしい笑みを浮かべたまま、駆け足で嵐のように部屋を去っていく。
「何というか、元気、だよな……」
 カッツァの少年らしい元気さに圧倒され和弥はただただ呆然とするしかなかった。残りのスープをさっと飲み干すと一気に疲れが出てきたのだろう、瞼が重くなり、また和弥の意識はどんどんと遠のいていくのだった。



 再び和弥が目覚めたのは、日付が変わり朝日が昇る頃だった。部屋を出て森の中にひっそりと存在するこの家を散策する。立地する場所といい佇まいといいまるで隠れ家のようだ。
「あ、起きたのか」
 リビングに相当するであろう少し広めの部屋には既にカッツァおり、暖炉と格闘しているところだった。中々火が起きないらしく苦戦しているようだ。
「おはよう、カッツァ」
「ちょっと待ってろよ……。よっし、ようやく点いた」
 暖炉にようやく炎が灯ったらしく額に浮かんだ汗を拭いながらカッツァは和弥に向き直る。
「もう体の方は大丈夫なのか?」
「特に傷とかを負ってる訳じゃないし、ただ単にお腹が減って倒れただけだからご飯を食べれば大丈夫だと思う」
「ならまずは朝ご飯を食べようではないか」
 朝食を用意していたレミス老人がやってきてカッツァと和弥はそれぞれ席に着き、並べられた料理に向かう。
 それから穏やかに談笑をしつつ、これからについて話し合う。
「それでおぬしはどうするつもりじゃ」
「とにかくこの世界を旅をして、創造主とやらに出会えるように色々と探っていこうと思っています」
 和弥の言葉にレミス老人はしばし無言になり、そしてゆっくりと顔を上げ、和弥の顔をじっと見つめる。
「苦しい旅になるぞ」
「わかっています。ですがどうやってでも自分の世界に戻りたい」
「そうか。覚悟は決まっておるようじゃの」
 和弥はレミス老人の細くて一見閉じているようにしか見えない目をじっと見つめながらこの世界に来た当初から考えていたことを述べる。
「ならば、カッツァ。しばらく手伝ってあげなさい」
「いいのか、じいさん?」
 レミス老人は小さく頷くと、カッツァに視線を移し和弥の手伝いをするように言いつける。カッツァは異論こそ出さなかったが、レミス老人の提案にかなり驚いているように見えた。
「悪戯坊主だが、多少は役に立つじゃろう……。まずは和弥にはこの世界に慣れる方がいいと思いましてな」
「買い出しもしないといけないしね」
 カッツァは胸元にぶら下げた財布をチャラチャラ言わせながらイスから飛び降りる。
「詳しいことはカッツァに聞けばいいじゃろう」
「わかりました」
 食事を食べ終わった和弥は礼を述べるとレミス老人を一瞥し、先に家の外で待つカッツァの後を追う。
 森特有の朝の澄みきった空気を腹一杯に吸い込む深呼吸が心地良い。深遠な森の片隅に存在する隠れ家という感じがぴったりだ。
「それじゃあ行こうか」
 カッツァについて森の道かどうかわからない道を突き進む。本当にあってるのかどうか怪しいが、和弥は何も言わずカッツァの後を追う。
「今から行くのはサルタスの街なんだ。ここから一番近い、森のすぐ側にある小さな街だけど、旅の装備とかを揃えるにはちょうどいいと思うぜ」
 そういってほらすぐそこさとカッツァは森が開けた先にある小さな町並みを示す。
「ここから……か」
 緑豊かで穏やかな感じのする町並みをじっと眺めながら和弥はこれからはじまるであろう長い旅の予感を肌で感じ取っていた。

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