マウンドの上は燃えさかる地獄の業火と化していた。8月のまっさなかの炎天下の日差しは容赦なくマウンドに立つ投手のスタミナを見知らぬうちにどんどん削り取っていく。
 体力的にも、試合の展開的にも限界なのは誰の目にも見えていた。だが、それでもマウンドを降りず、相手に向かっていくのはエースとしての矜持故か。
 回は7回表、点差は10点以上ある。懸命にマウンドを守り続けているのは、まだ幼げな部分を色強く残した少年だった。
 右腕が、一回から失われていない躍動感溢れるフォームから振り抜かれる。
 だが、懸命に放たれたボールはいとも簡単に弾き返され、サードの横を抜けていく。
 それでも、少年の目は死んでいなかった。野獣のようにギラギラと輝く瞳は、戦う意志をまだ残している。
 マウンドに内野陣が集まってくる。マウンドの土をならす少年を取り囲むように次々と声を掛けてくる。
 1人1人の言葉に頷きながら、少年は土に汚れ、色あせているボールを強く握り治す。握力はなくなりつつある、それでもボールを離すつもりはない。
 最後にやってきたのは少年と幼い頃からバッテリーを組むキャッチャーの少年だった。人の良さそうな笑みを浮かべ、右肩にそっと触れる。
「まだ大丈夫?」
 触れられた右肩から入っていた力が少しだけ抜ける。知らず知らず力が入っていたらしい。ふぅっと小さく息を吐いて、肩の力を改めて抜く。
「まだ行ける。それに……」
 少年はネクストバッターズサークルでバットを黙々と振り続ける相手のピッチャーを強く睨み付ける。
「その負けん気があればまだ行けるね。後、1アウト頑張ろう」
 軽く肩を叩かれて、キャッチャーマスクをかぶって去っていく後ろ姿をじっと眺める。口元に僅かに笑みが浮かべて、右バッターボックスに入ってくるバッターに視線を移す。
 そいつは怪物だった。少年の常識を越えた存在だった。少年の自信のある直球よりも遙かに速いストレート、そして見たことの無いほどの変化をするスライダー。
 全国大会は化け物の巣窟で、少年を中心に勝ち抜いてきたチームを一気に飲み込んだ。高校生にも匹敵するチーム力に怪物のそいつに少年は歯が立たなかった。ストレートは容赦なく弾き返され、決め球であるフォークは完全に見切られていた。
 それでも少年はそんな相手に1人で投げ抜いた。6回と2/3を持てる力を全て出し切って戦ってきた。
 恐らくはコールドだろう。だが、それでもマウンドを降りるわけにはいかなかった。少年の投手としての意地がそれを許さなかった。
 重たくなっている右腕を渾身の力と共に振り抜く。歯を食いしばり、裂帛の気合いを声として轟かせ、そいつに向かう。
 刹那、強烈な金属音がグラウンド上に響き渡った。



 夕暮れのグラウンド、ほんの2,3時間前まで行われていた戦いの舞台は観客の歓声も既に途絶え、その役目を終えようとしていた。
「まだここにいたんだ。探したよ、進君」
 キャッチャーミットを小脇に抱えた少年が少し残念そうな表情を浮かべながら、近づいてくる。
「彰人か。お前こそどうしたんだよ」
 マウンドに佇んだまま、何とも言えない表情でホームベースの方を見つめた少年はぽつりと小さく呟く。
 不意に沈黙が2人の間を漂い始める。今までずっと2人でコンビを組んで戦ってきた。言葉にしなくても言いたいことは解っていた。
「………………彰人、俺さ」
「どうしたの?」
 沈黙を打ち破ったのは、酷く穏やかな声。先程までの苛烈な雄叫びとは全く別物の声音だった。
「俺、このままじゃダメな気がする」
「どういうこと?」
 不意に少年の声の質が変わった。疑問、戸惑いが言葉の端に垣間見える。
「夕日浜には行かない」
 それは彰人にとっては青天の霹靂だった。これからもずっと進とはバッテリーを組んでいくものだったと思ってた。それが急に離ればなれの道を告げられたのだ、驚かない方がおかしい。
「え…………」
「あいつに圧倒的な力の差を見せられた。このままじゃダメだ」
 進の目は真剣そのものだった。唇は噛みしめられており、よほど先程の敗戦が悔しかったのだとわかる。
 そして対戦相手は進にそれだけの決意を負わせるだけの力があった。
「そっか……」
 一瞬の逡巡と共に再び2人の間を静寂が突き抜ける。だが、それはすぐに彰人によってかき消される。
「進君が決めたなら、仕方ないかな。君は頑固だから。ほんとは一緒に甲子園を目指したかったけど」
「彰人……」
 何か言いたげな進を制して、彰人は言葉を続ける。
「これからは甲子園を賭けて戦うライバルだね」
「ああ、そうだな」
 彰人の言葉に頷いた進は、右手を軽く挙げて、ふっと軽く笑みを零す。と同時に彰人も同じように右腕を上げて、2人の掌が交差する。
「負けないぜ」
「うん」
 ハイタッチを終えた2人の間を僅かに冷たくなった秋の訪れを告げる風が吹き抜けていった。

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