黄昏時の夕日がグラウンドを黄金色に染め上げている。始まりを告げる春の少し冷たい風が、真新しい制服の裾をそっと揺らす。
 ほんの数時間前まで新入生の初々しい喧噪で包まれていた教室は、今や物音一つ無く静まりかえっている。
 窓際の席にぼんやりと腰を掛け、グラウンドの方をずっと見やっていた少年は、不意にこつこつと廊下をゆっくりと歩くスリッパの音に顔を扉の方へと向ける。
 廊下を歩く音が消えたと同時に、ゆっくりと教室の扉が開かれ、少年は目を細める。
「遅くなったな、進」
 入って来たのは、整った顔立ちの少年だった。同じく真新しい制服に身を包み、左手には布製の白い袋がある。
「仕方ないけどさ、それでも結構待ったぜ、修」
 進と呼ばれた少年は、口元からにっと白い歯を零すと、机から飛び降りて、フックにかかっていた同じような黒い袋を手にする。
「それじゃあ、するか?」
 修と呼ばれた少年も笑みを浮かべて、ポケットから出した純白に赤い縫い目のあるボールを取り出す。
「当たり前だ。野球しようぜ」
 少年は大きく頷くと、ぐっと右手の握り拳を高々と掲げた。



01 野球部を作ろう



 ――私立・朝日丘(あさひおか)高校
 稲見県高洲市の東の端に存在する私立の高校だ。これといった特徴はあまりなく、学力的には平均か平均より少し上と言った程度だ。運動部などの部活動もそこまで盛んではない。
 悪い言い方をすれば特徴のない平凡な高校だ。
 部活動もそこまで盛んではないとは先程述べた通りだ。夕刻を過ぎて、新学期の始まってすぐのグラウンドは人影もなく、静かに佇むのみ。
 そんな無人のグラウンドに二つの小さな影が並んでいた。学校指定のブレザーの裾先からはグローブが生えているようにも見える。
 ぱしっ、ぱしっ、っと小気味の良い音を立てながら、2人の距離が徐々に離れていく。距離が開く度に小さな丸い影が2人の間を駆け抜けていく。
「ウォーミングアップとしてはこんなものでいいか」
 十分に距離が開いたところで、人影の1人が大きな声でもう1人に声を掛ける。
「OKだ、修」
 右腕でボールを握ったまま、少年――西崎進(にしざきすすむ)は、グラブを構えた少年――吉沢修(よしざわしゅう)の言葉に応えた。
「それじゃあ、まずは一球目!」
 進はふぅっと一息吐いて、吉沢と対峙するように体を向けた。ボールを握った右腕とグラブの嵌った左腕を同時に高々と天に掲げ、体全体を伸ばす。
 左足が地面を蹴るように飛び跳ね、体が横向きになる。大きく振りかぶるワインドアップの動きから、躍動感溢れるフォームでボールが放たれる。
 空気を切り裂き、まるでミサイルのようにボールは真っ直ぐ進んでいく。
 バシーンっと耳を切り裂くような音と共に、吉沢のグラブが大きく震える。苦い表情をしながら、吉沢は横にグラブを流して、必死に衝撃を吸収する。
「どうだ」
 誇らしげな表情で、渾身のストレートを投げ込んだ進は笑みと共に歯を零す。
 そんな進の様子を見て、吉沢は小さくため息をついて、グラブを外す。一球で赤く染まりきった左手をひらひらさせながら、進の方へと近づく。
「全力で投げるなよ。キャッチャーでも何でもない俺にはお前のストレートはきつすぎる」
 未だにひりひりとしている左手を進の目の前に突きつけながら、強い口調で吉沢は言う。
「悪い悪い、やり過ぎた」
 悪びれる様子もなく口だけの進に諦めにも似たため息を一つ吐き、吉沢は至近距離で進にボールを放る。ちょっとした報復だ。だが、それをグラブであっさり受け取った進は、すぐにポケットへとボールをしまってしまう。
「けど、この状況じゃろくに投球練習も出来ないな」
「確かにそうだな」
 吉沢は進の言葉に頷き、日で斜めに照らし出される誰もいないグラウンドを一瞥した。広いグラウンドではあるが、そこで運動をする者が2人では寂しすぎる。
 それにこの学校には珍しく野球部がない。それにも関わらず、2人がこの学校にいるのには訳があった。
「一から野球部作って甲子園目指すんだろう? だからこそ俺は修に呼ばれてここにいるんだからな」
 右腕に力を込めながら、進は目の前にいる少年の目をじっと見つめ、力強く言い放つ。
 進は本来朝日丘に進学するつもりはなかった。地元の強豪校に行こうと考えていたのだが、とあることをきっかけに吉沢の誘いもあり、敢えて野球部のない朝日丘に進学したのだった。幸い、母方の祖母の家が近くにあり、そこから通っている。
「本当に来てくれるとは正直、思っていなかった。他に誘った奴はほとんど来なかったしな」
 吉沢は少し寂しそうな表情を浮かべて、俯き加減に下を向く。だが、すぐに表情を元に戻して、進の様子を見やる。
 どうして吉沢が無名のこの高校を選び、野球部を立ち上げると言ったのかは進にはよくわからない。吉沢は県下では有名なショートだったのだ。投手時々も務めるほどに能力もある。王港学園や華法院といった有名なチームに望めば行けたはずだったのだ。
 本人の考えなどよくはわからないが、進にはそれが不思議で仕方なかった。
「それはそうと、部活を新しく創設する場合は手続きが必要らしい。それもやらないといけないが」
「なるべく早めに済ませて、部員勧誘もしないと。2人で野球はできないしな」
 進と吉沢は同時に小さく頷くと、グラウンドを後にして、目新しい学舎へと戻っていく。
「へぇ、面白そうなことしようとしているんだね。これはちょっと楽しみかも」
 グラウンドと校舎の間にある歩道の手すりに腰を掛け、夕日を眺めていたショートカットの少女がぽつりと呟く。進と吉沢のやりとりを遠目で見ていたその少女はたっと手すりから飛び降り、地面に降り立つ。ひらりとスカートが揺れ動き、胸元のリボンが震える。
「もう少し様子を見てみようかな」
 誰にも聞こえないほどの声で少女は誰ともなく呟く。その声は誰の耳に入ることもなく、夜をそこまで迎え冷たさを増してきた風のざわめきにかき消された。



 翌日の放課後、進と吉沢は校舎の一階に存在する職員室を訪れていた。職員室特有のコーヒーの臭いが、やたらと鼻につく。少し顔をしかめながら、進はきょろきょろと辺りを見回しながら、ある人物を捜していた。
「あら、西崎君じゃない」
 不意に後から声を掛けられて、びくりと肩を振るわせて進は後ろを振り返る。灯台もと暗し、目的の人物はどうやら後にいたようだった。
「あ、吉野先生」
 落ち着いた感じの服装に胸元にある大量のプリントを抱きしめた格好で、進の担任・吉野優子(よしのゆうこ)は進と吉沢の顔を交互に見やる。まだ新卒2,3年目の非常に若い先生だ。だが人当たりも良く既に生徒の人気も良い。
「何か用かしら? あ、ちょっと待ってね。先にプリント置いてくるから」
 吉野先生は、プリントの山を示し、自分の机まで運んでいく。その後を吉沢と進はゆっくり付いていく。
「さて何か用かしら?」
 どんと大きな音を立ててプリントの山を机に置いた吉野先生は小さく息を吐き、ゆったりとした教員用チェアに腰を掛け2人の方を向く。
 顔を見合わせた2人は同時に小さく頷き、吉野先生に目を向ける。
「野球部を作りたいんです。部活動をする場合には顧問がいるから、先生に顧問になって欲しいんです。お願いします」
 早口気味にまくし立てた吉沢は言うべき事を言い終わると、深々と頭を下げた。まさかそこまでされると思っていなかったのだろう、吉野先生は若干戸惑いながらも進の方を見てくる。
「俺からも、お願いします」
 進も慌てて同じように頭を下げる。これには吉野先生も驚くしかなかった。
「あ、頭はもう上げていいわよ」
 周りの様子を窺いながら吉野先生も慌てて、顔を上げるように2人を促す。吉沢の強い光の宿った瞳を一瞥して、観念したように小さく息を吐く。
「いいわ。なってあげる」
「おっしゃ!」
「やった」
 承認の言葉に、ガッツポーズと笑みを浮かべる2人。だが、その後に吉野先生はただしと前置きを置く。
「9人集まらないとダメだよ? 野球は9人でやるスポーツだからね。部員が集まったら正式に顧問になってあげる」
「はい」
 進と吉沢は小さく頷いて、ゆっくりと職員室を後にした。
「ふふ、今年は楽しみな子が入って来たね」
 手元に置いたコーヒーを口に運びながら、吉野先生は楽しげに小さく呟いた。

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